さて前回のブログでは、僕の憧れだったコンコルド旅客機の歴史やその概要を述べましたが、今回は2007年7月25日、パリ・シャルル・ド・ゴール空港で発生したエールフランス4590便(コンコルド旅客機)事故についてその詳細を述べようと思います(O_O)
この話を始める前に、最近僕が”ハマ”っているナショジオの飛行機事故・検証番組ついて触れたいと思いますが、以前にも述べたように飛行機事故には大きく分けると以下3つの原因に分けられます。
1.航空機の整備不良
2.悪天候などの気象条件
3.操縦士(パイロット)のミス
当然、今回のコンコルド旅客機墜落事故もこの3つの原因のいずれかに当てはまるわけですが、僕がこの番組を観て気付いたのが、この番組に夢中になっているうちに、まるで僕自身がその旅客機に搭乗していた旅客の1人、そして墜落後はその遺族の1人如くすっかり感情移入することです(O_O)
この番組を視聴していていつも自分自身に驚くのは、まだ事故原因が判明していないにも関わらず、いつの間にか、もしくは反射的にその事故責任を誰かに求めている、つまり上記原因1や2の可能性があったとしても、3のパイロットに事故原因の責任を求める感情が働くことです(゜◇゜)ガーン
多分それは上記1・2の原因でよりも、3の原因のほうが文句を言えるから、つまり行き処のない気持ち・怒りをパイロットにぶつけることで、少しでも事故のストレスを解消出来るような無意識自己防衛反応が働くのでしょうが、もし事故原因がパイロット以外だとすれば、パイロットはいわれない事故責任を擦り付けらるのですから、大変ストレスフルな仕事なはずです(>_<)(>_<)
前置きはこれくらいにして、そろそろ本題に入りますが、エールフランス4590便(コンコルド旅客機)は、当時54歳で冒険家(ウインド・サーフィンによる大西洋横断など)としても有名なクリスティアン・マルティ機長を含む乗務員9名と、ドイツ人チャーター乗客100名を載せてパリ・シャルル・ド・ゴール空港を2007年7月25日・午後4時42分に離陸滑走を開始しました。
その後この旅客機が時速332キロに達したとき、下の事故写真のように後部から黒煙が発生しましたが既に離陸速度に達していたため離陸中止は出来ずそのまま黒煙を引きながら離陸し、すぐに管制塔からパイロットへ緊急着陸要請指示が出されました。
しかしエンジンが燃え広がったコンコルドはすでに制御不能となっており、離陸2分後にシャルル・ド・ゴール空港から10キロ南西の地点に墜落し、乗員乗客全員が死亡する大惨事となりました。。
この事故原因は当初はテロも疑われましたが、決め手となったのは滑走路に残されたタイヤ破片で、どうやら滑走路での離陸中にタイヤが破損、その破片が燃料タンク外壁に衝突したため燃料漏れが発生し、その後この燃料が着火したため主翼エンジンが破壊され失速・墜落しました(>_<)
では何故コンコルドのタイヤが破損したかですが、なんとそれはこのコンコルドが離陸する5分前、この滑走路を飛び立った米国・コンチネンタル航空55便(DC10)のエンジンから脱落した金属部品を離陸滑走時に踏み込んでしまったからで、上記のようなパイロット責任による操縦ミスは皆無どころか、このパイロットはその後この航空機を救うため最大限の努力を試みました。
つまり本航空機事故の墜落原因は、事故を起こしたコンコルド旅客機そのものでなく、米国・コンチネンタル航空55便の整備不良が原因だったので、コンコルドに搭乗していた乗務員乗客は不運としか言いようのない事故の犠牲者となったのです。。
その後この旅客機を運航していたエール・フランス社は、米国・コンチネンタル航空を相手に訴訟を起こし、米国・コンチネンタル航空は有罪判決を受けたようですが、それを不服とした米国・コンチネンタル航空は控訴するなど泥沼の争いが続いたようです(>_<)
それにしてもコンコルドは、その機体形状といいそのスピードといい大変魅力的な旅客機だったにも関わらず、何故か悲運に包まれていたようで、この事故を契機にその3年後には運航停止に追い込まれました。。
本ブログまとめですが、世の中にはコンコルドのようにいくら才能・容姿に恵まれている人でも必ずしも成功するとは限らず、それと同様、もしくはそれ以上に重要なものがあり、それは”運”でそれがなければ他が全て揃っていても上手くいかないことがあることを、コンコルド旅客機の歴史を振り返って気付かされました。。
