前々回のブログでは西洋人と東洋人の体質の違いについて触れましたが、僕は東京に暮らし始めてから日本人の特性らしきものを北海道で暮らしていた時より、強く感じるようになりました。
それは北海道の歴史が200年あまりと短いのに比べて東京は1000年以上の歴史があり、日本特有の文化が根付いているからなのでしょう。
またまた食事を例に挙げてその理由を具体的に説明すると、あるとき僕は東京でワインバーを訪れ、それなりの値段のグラスワインを頼みましたが、するとソムリエさんが立派なワイングラスを用意し、そのワインの講釈を述べた後そのグラスに丁寧にワインを注ぎ始めました。
するとグラスが1/4にも満たないうちに注ぐのを止め、ぼくに「はいどうぞ」と言いましたが、僕は内心”えっ、たったのこれだけ??”と思いつつ、ワインがまろやかになるまで少し間をあけてから口に入れると、とても美味しかったのでついついゴクッ飲み干しましたが、なんとその一口で半量が消失しました。。(゜◇゜)ガーン
そしてもう一口飲むと、高価代金を支払って頼んだワイングラスはあっという間に空っぽとなりぼくは唖然としましたが、日本、特に都心部ではこのワインバーのように量を少なめに出すお店が多いと常々感じていました。
もし米国のバーでグラスワインを頼めば、ワインについての講釈もなければきめ細かいサービスもありませんが、どのお店でもワイングラスの8割位までなみなみと注いでくれるので、僕のようにさほどワイン価値が分からず、むしろ”質より量”を求める人間には大変有り難く感じます(^o^)
”量より質”の日本ではワインバーのみならず、おそば屋さんでざるそばを頼んでも大食いの僕の場合、やはり2〜3口おそばをすすっただけでざるがあっという間に空になるし、飛行機内でジュースを頼んでもあまりに少量ですぐにお代わりを頼まざるを得なく、”どうせだったら最初からたっぷり注いでくれたら良いのに。。”と常々感じています(>_<)
極めつきは今年の7月酷暑の中で参加したハーフマラソン大会ですが、僕は走り始めてすぐに激しい口渇に襲われ、ゴールをめざすどころか、とりあえず2.5キロ先に設置された給水ポイントに辿り着くのに必死で走りました(O_O)
ようやく給水ポイントに辿りついて”ホッ”とし、水の入った紙コップを一つ掴みましたが、その紙コップが随分小さく”おや?”と思いながらとにかく喉の渇きを満たすのに飲んでみると、なんとその小さな紙コップにはたった半分しか水が満入っておらず僕は愕然としました(・O・;
この酷暑で走りながら、この程度の給水量では水熱中症の危険があると僕は感じたので、走行タイムは二の次にし、再度給水ポイントまで逆走し、そこで給水担当の女性にお願いして紙コップ5杯に水を満杯に注いで貰い、それを飲み干してからまた走り始めました(^_^;
最初から大きめの紙コップにたっぷりと水が注いであれば、2杯程度で十分喉の渇きは満たされたはずなのに、マラソン大会でも”量は二の次”とする日本の文化に直面したような気がしました。。(×_×)
何故日本に”量は少なめ”とする文化が根付いたのだろうか?答えはネット検索しても見つからず、その疑問は深まるばかりでしたが、あるとき僕は外国人の友人から幾度となく「お前は小さい癖によく食べるなぁ〜!」と驚かれたことを”ふ”と想い出したのです!
すなわち僕は体格こそ典型的日本人だけれど、飲み食い量は日本人の規格外、どちらかというと”外国人仕様”だということに気づいたのです(・o・)
そして日本人は”質より量”を重視すると思っていたのは僕の勘違いで、つまり普通の日本人はお店で出される食事量に満足していて、単に僕が”大食漢で”一般日本人の食事量では足りなかっただけで、むしろ日本は”質・量”ともに調和の取れた文化を保持していることを再確認しました。。(^_^;