朝、4か所を回り帰って来て、障子を貼っただけなのにやけに疲れてしまった。
こんなに疲れるようになったのは何時からなんだろう、何だかガッカリする。
廊下の神椅子で、日向ぼっこをしながら横になっていたら、妻に昼飯が出来たと呼ばれた。
中々起き上がる気がせず、ぼやぼやしていたら、ご飯が出来たってばと急き立てられた。
台所へ行ったら味噌ラーメンが出来ていた。
やけに麵が多く、しかも伸びてきていたので物凄い量だった。
一体何玉使ったのと聞いたら5玉で、3人で割ると1.666666666666666666666666・・・・・になり、次男はともかく、古希のジジイと還暦と古希の真ん中のバアサンが喰う量じゃない。
それでも全部平らげて、チョコレートバナナケーキ2切れ、柿半分、無花果4個を食べたのだから動けなくなるのは当たり前だ。
ふたたび神椅子で温室のような廊下で微睡んでいたが、3時になったのでポスティングに出かけた。
先輩から新聞に記事が載っているから寄るように云われ、行ったら美味そうなみたらし団子があり、2串いただいた。
ロールケーキ2個、蜜柑2個、芥子菜を土産にいただいてポスティングに出かけた。
2地区の変に小さくやり残したところを埋めたので、150枚にも満たなかったが、両地区の全面をカバーできたので気分爽快だった。
家に帰ったら既に暗く、風呂に入ってさっぱりした。
留守中に下町の方が見えて、最後のチラシ、多分「政策レポート8」が配布されてないので取りに来てくれたとのこと。
「政策レポート8」は、夏の暑い頃、暑さに負けてパスしてしまった地区に、補助的に作成したもので、表は新しい記事だが、裏は「政策レポート4」の裏面に書いた「二宮町と中村党」の再録だ。
妻に拠れば、その方ブログも読んでくださっているとのことで、下に掲載しておきます。
「愛する二宮町の未来へ」 政策レポート8
二宮町を二分している新庁舎建設の是非について
再考の余地があると思います。その理由は、建設費用の40億円+は、二宮町にとっては過剰な負担になるからで、既に予算を余らせて庁舎建設の基金へ編入させていることで、道路補修などがされず町民サービスが劣化しています。 実際に建設が始まればさらに町民サービスの劣化が多方面で加速されます。
町役場で行われる業務の多くは、今後AIで代行され、組織的に導入すれば人員は2割で済むとの試算もあります。
そのため、大きな庁舎建設の必要はありません。しかし、人と人のコミュニケーションは今後益々重要になります。二宮町所有の土地や建物を利用して、町内各地区に職員が常駐する出先機関を儲け、住民サービスを行い、お年寄りや子供たちが何時でも集まれる場所の提供をし、住民からの生の声を取り入れる有機的なシステムを構築すべきです。
ちょっと立ち止まり、人口減少に伴う学校の統廃合を含めた、大きなヴィジョンの中の一つとして新庁舎の計画を見直すべきではないでしょうか。
二つ目の理由は、浸水とがけ崩れの可能性がある場所に、防災本部になる施設を立てるべきではないからです。明治41年、園芸試験場は湿地帯だったところに作られたので、新庁舎建設予定の果樹園の地層を調べたら、30m以上が軟弱土壌だったのはその名残です。今では水無川は花水川に流れ込んでいますが、大昔、葛川は水無川と繋がっていて川幅200mの大河でした。その当時から新庁舎建設予定地は大湿地帯であったと思われます。
チームレガシーでは二宮の歴史を皆さまに知っていただき、この町への愛情を更に育んでいただきたいと思っております。裏面に中村党に纏わる話を書きましたので、ぜひ、お楽しみいただきながらお読みになってください。
中村党と二宮
中村氏の館は現在の小田原市小竹の「殿の窪」辺りにあったと云われています
桓武平氏の流れをくむ平宗平は中村の地にちなんで中村荘司と名乗り、嫡子は重平、次男の実平は土肥氏(湯河原・真鶴)その子遠平は小早川氏(早川)、三男の宗遠は土屋氏(平塚)、そして四男の友平が二宮氏、五男の頼平は堺氏(中井)を名乗りました
押切川の上流は中村川ですが、古い時代は今より気温が高く海面が高かったので、古中村湾になっていました
中村郷は中村原・小舟・小竹辺りにあり、当時、小舟は中村氏の港だったようです
時代が下り江戸時代には、河口は広い湿地帯で鶴が生息していて、北斎は「富嶽三十六景 相州梅沢庄」に丹頂鶴を描いています
この辺りに鶴がいた痕跡は、真鶴に地名として残っています
二宮氏の館は知足寺の辺りにありました
二代目朝忠の妻の花月は、曽我兄弟の仇討成就後、弟たちの菩提を弔うために、知足寺を建立したと云われています
この朝忠の一族が小田原方面へ土着した末裔に二宮金次郎がおり、その血縁に河野一郎・洋平・太郎を輩出した河野家があります
中村党は、1213年「和田の乱」で北条義時に敗れ衰退し、二宮氏も虫窪に落ち延びたと云われ、今も二宮姓が多く残っています
一次資料は無いようですが、中里に多い水島姓は二宮氏が姓を替えて住んだと云われています
1180年に頼朝が挙兵した時には、土肥氏と土屋氏が主力となり中村党一族が参戦しましたが、石橋山の合戦で敗れた頼朝は、土肥実平と実平の実弟土屋宗遠など六名と共に真鶴の岩港から、安房の鋸南町竜島に海路逃れます(七駒落ち)
安房に渡った頼朝に「坂東八平氏」千葉氏 (下総)、上総氏、三浦氏、土肥氏 (湯河原)、秩父氏 (武蔵国)、大庭氏 (藤沢)、梶原氏(鎌倉)、長尾氏 (横浜・鎌倉、後の長尾景虎が上杉謙信)が加勢し、鎌倉へ攻め上がり幕府を設立しました
中村氏は没落してしまいましたが、土肥氏の末裔は安芸の国で小早川氏となり、血統は途絶えたもの家名は残りました
関ヶ原での勝負を決した寝返りにより、小早川秀秋(秀吉の甥)の名は広く知られています
土屋氏は甲斐や伊豆に逃れ、武田氏の側近になった土屋昌恒は「片手千人斬り」で名を成し(甲州土屋氏)、家康に取り上げられ、土浦藩の大名になっています
また、優れた武田流兵学により、加賀藩や富山藩に高禄で召し抱えられた者もおり、 高岡市には土屋の地名が残っています
土地に残り小豪族に甘んじていた土屋氏は、足利尊氏上洛のおり、一族の再起をかけ共に上洛し、山城守護となった山名氏のもとで、分家に当たる垣屋氏が、「山名四天王」の筆頭になっています
しかし、関ヶ原で西軍に付き敗れています