文学——理解しているようで理解できていない漢字2文字の単語。大学時代に一応フランス「文学」を専攻していたにもかかわらず、私はこのなじみあるはずの言葉を分かっていなかったし、定義もできていなかった。
だが、文学部出身の人間として、ここへきて自分なりに定義しなくていはいけない場面に直面しているのかもしれない。
13日、ノーベル文学賞の受賞者が発表された。受賞したのは米の歌手ボブ・ディラン氏。村上春樹氏、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴ氏、米の作家フィリップ・ロス氏ら有力とみられていた候補者(とされる人物)がいる中で、従前の予想では全く挙がっていなかった人物だったため、違和感を感じた方々も多いかと思われる。私もその1人である。
そこで、今年のノーベル文学賞を機に、まず始めに文学とは何かを考え、次にボブ・ディラン氏の受賞理由を挙げた上で受賞の妥当性を考える。
文学という言葉を聞いて、思い浮かぶのは小説や随筆、詩など文字で残された作品であろう。日本なら平安時代に書かれた紫式部の源氏物語や清少納言の枕草子から森鴎外や夏目漱石、芥川龍之介や三島由紀夫といった近代の作家の作品群、堀口大学や萩原朔太郎らの詩がそうである。現代なら村上春樹氏の著作も含まれる。言い換えると人間が言葉で紡ぎだす世界ということになる。
では、大学の文学部で研究対象になるのは、言葉や文章で織りなされた作品だけを指すのか。答えはノーである。言語そのものや歴史、哲学も対象になっているし、音楽や美術、そして演劇やダンスも研究分野となっている。つまり、人間の精神や文化を含めた領域が文学部の研究対象となっている。
ということは、文学イコール人文学であり、言語が繰り広げる世界や人間の内面、人間の精神が作り出す世界と定義されるのである。
次に、ボブ・ディラン氏はミュージシャンであり、音楽の分野に関わっている。自分の言葉で歌詞を生み出し、曲も自身で作って世の中に歌を出している。この点では「文学」の範疇に収まる。
受賞理由に関しては、報道を見る限りでは「新たな詩的表現を生み出した。現代の音楽への影響は計り知れない」とある。何をもって新たな詩的表現かは分からないので抽象的と言わざるを得ない。ディラン氏の曲をほとんど聞いたことがないので、私は確固たる評価はできないが、おそらく歌詞の言葉が「たぐい稀なる」ということなのだろう。
私はむしろ、ディラン氏の曲が社会にしかるべきメッセージを発していたのではないか、そのため今回の受賞となったのではないかと考える。確かに、ディラン氏は反戦歌で知られた存在だという。例えば「戦争の親玉」「時代は変わる」がそうだ。また、アメリカ公民権運動の讃歌としての「風に吹かれて」もある。単なる人気歌手としてではなく、曲を通じて聴衆に社会問題を考えてほしいと暗に訴えていたのである。
過去のノーベル文学賞受賞者をみると、この点は非常に重要である。一例を挙げると14年のパトリック・モディアノ氏である。このときは「フランスのナチスドイツ占領下における生活世界を(ユダヤ系の人間の視点から)明らかにした記憶の芸術に対して」という受賞理由であった。
ここが、村上春樹氏の作品とは決定的に違う点である。村上氏の作品は確かに、ディラン氏の曲が世界中の人々に聴かれているように、日本のみならず世界中で読まれている。だが、村上氏の作品の登場人物は、社会を変えようと躍起になるわけでなく、政治的メッセージを発するわけでもなく、漫然と現状を受け入れながら生きる選択をする傾向にあるという。その点で、たとえ読者受けは良くても社会に訴えかける力は非常に弱いと言わざるを得ない。
以上をまとめると、定義から音楽は人間の精神が生み出した産物であるので文学である。ボブ・ディラン氏の曲の詩は考え抜かれた言葉で強いメッセージを発していることから、この点でも文学としてふさわしい。従って過去の受賞者の受賞理由も考慮すると、ディラン氏は単なる人気作家である村上春樹よりもノーベル文学賞にふさわしい人物である。