Yosshy's Memorandum

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とりあえず“何でもアリ”だったのが、ややフランス語やフランス関連にシフト中です。それほど頻繁に更新されないかもしれませんが、よろしくお願いします。

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 あけましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。本年も当ブログをよろしくお願いします。

 

 「振り返る」の項目に書いた通り、今年の目標は「英仏語とも最低限CEFRのC1レベルで使いこなせるようになる」ことを至上命題とします。スペイン語は同B2レベルで使いこなせるようになる、または通訳案内士試験に合格することとします(スペイン語に関しては具体的に触れていませんでした)

 

 上記の目標を掲げるということは、単に知識としての外国語ではなく実際に使えることです。C1レベルで何とかネイティヴとやりとりができ、B2なら自分の言いたいことは言える(スピード、流暢さは考慮しないものとする)レベルかと。言うは易し、行うは難しですが、前進あるのみ。

 

 さて、もう1つ、自分のこととは別に願いがあります。それは「カープの赤松真人選手が1日も早く全快して復帰すること」です。昨年末に赤松選手が胃がんであることを公表したというショッキングなニュースが入ってきました。本人と担当医によれば、初期段階で命に関わる話ではないとのことですが、胃は2分の1〜3分の2を切除しなければならないとのことで、スポーツ選手にとっては回復後にかなり負担がかかるのは必至。本人が一番辛いのは承知の上で、我々ファンができるのは回復して元気な姿を見せてほしいと願うことではないでしょうか。

 

 

 ※末筆ながら、私も昨年11月、長引いていた手首の怪我の手術(関節鏡下)を受け、予後はとりあえず良好です。その段階での診断は「手首の滑膜炎」でTFCC損傷ではありませんでした。最初からTFCCには問題なく滑膜炎だったのか、治療を続けてTFCCは回復した一方で滑膜炎を発症したかは不明です。

 

 やはり、語学上達には「発音や流暢さが大切」ということなのだろう。あらためて思い知らされた1年だった。

 

 ここでいう流暢さとは、すらすら話したり書いたりすることもさることながら、致命的な文法ミスにより相手の誤解を招かない程度の言語能力があることとする。

 

 総括すると、スペイン語力は多少伸びたものの(口頭表現を除きCEFRのB1か)フランス語、英語は目標としているC1に到達したとは言いがたい。確かに、スペイン語は3級1次を突破した。文法面を強化したことが奏功したからである。読むことや書くことは現地の中学生レベルには遠く及ばないものの以前ほど苦にならない。なお、面接で2回連続不合格になってしまい「1次免除」の権利を失ってしまった。その文法が、口頭表現レベルまでは身に付いていなかったためである。フランス語や英語は、教養レベル—つまり大学程度の高等教育レベル—で読んだ資料を文章にまとめたり口頭で発表する力に自信が持てない。英仏ともB2レベルが続き、大学レベルに達していないものの最低限使える域から相変わらず脱出できない(B2でも履修可能な大学のコースがほんの少しはあるようだが、自分の中では高等教育=C1と考えている)。

 

 これまで何度も繰り返した話だが「時間を十分に使えば(高等教育レベルでも)何とかなる」では、そのレベルに達していないことになる。素早く反応=流暢に使いこなせてこその言葉である。例えば、どんなに中身を仕上げても口頭発表にもたついては相手に伝わらない。限られた時間で資料を把握したり、人の言うことを聞いて理解した上で、それに対する応酬を与えられた時間でこなして初めて会議や討論についていけるとみなされる。

 

 これが中身もさることながら「発音や流暢さが大切」といわれるゆえんなのだろう。まずは発音や流暢さが十分なら、とりあえず相手は話を聞いてくれる。さらに関心を持ってくれるか否かの時点で、ようやく話の中身の善し悪しが関与してくる。コミュニケーションの普通の流れだ。

 

 「発音や流暢さより中身」という俗説の信奉者は、順序を取り違えている。それが成立するのは使える時間が無制限の場合である。ゆっくり話しても、拙い言葉でも、時間を気にしなければ、相手もイライラすることなく聞いたり読んだりしてくれるだろう。

 

 ところが、先に述べた通り現実は時間の制約があるため、言葉のやり取りをする上で自分だけたっぷり時間をもらえるわけではない。その状況下で発音が悪かったり、しどろもどろになったり、書き言葉も含めて誤解を招くような言葉遣いしかできないなら、どんなにすばらしい中身があっても「宝の持ち腐れ」である。私の場合に当てはめると、たかだか試験の話ではあるが、C1レベルになると準備したものや持ち合わせているものすべてを制限時間の中で表現できるわけではない、という状況である(特に書き言葉)。

 

 話はそれるが、今年の総括ということで日本語教育能力検定能力検定に触れさせていただきたい。こちらは、他の受験者の方々に比べたら準備不足は否めなかったものの、かろうじて合格した。この試験は、一般的にはかなり細かいことまで暗記を強いられるとされているが、私は少々違うように感じた。言語学や社会学、コミュニケーション論など幅広く(実はそれほど深くない?)出題されるので、受験者自身の教養も含めて問われているのでは、と感じた。当然、母語である日本語で受けたので、細かいところまで暗記した覚えはなかったものの「語学の勉強や普段の読書などで身につけた中身」も役に立った。

 

 今年を振り返って言えることは、言語習得—言い換えるとできるか否か—は一定のレベルまでは「中身よりも発音や流暢を重視すべき」であり、母語または母語なみに達した言語に関しては「中身も、いやむしろ中身の方が大切になってくる」である。師走もそこそこ押し迫った中旬、最後の最後に届いた日本語教育能力検定の合格通知を手にして、逆にフランス語や英語、スペイン語に関しては、来年に向けて中身云々よりまずは謙虚に言葉そのものの力をつけようと誓った。

 文学——理解しているようで理解できていない漢字2文字の単語。大学時代に一応フランス「文学」を専攻していたにもかかわらず、私はこのなじみあるはずの言葉を分かっていなかったし、定義もできていなかった。

 だが、文学部出身の人間として、ここへきて自分なりに定義しなくていはいけない場面に直面しているのかもしれない。

 13日、ノーベル文学賞の受賞者が発表された。受賞したのは米の歌手ボブ・ディラン氏。村上春樹氏、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴ氏、米の作家フィリップ・ロス氏ら有力とみられていた候補者(とされる人物)がいる中で、従前の予想では全く挙がっていなかった人物だったため、違和感を感じた方々も多いかと思われる。私もその1人である。

 そこで、今年のノーベル文学賞を機に、まず始めに文学とは何かを考え、次にボブ・ディラン氏の受賞理由を挙げた上で受賞の妥当性を考える。

 

 文学という言葉を聞いて、思い浮かぶのは小説や随筆、詩など文字で残された作品であろう。日本なら平安時代に書かれた紫式部の源氏物語や清少納言の枕草子から森鴎外や夏目漱石、芥川龍之介や三島由紀夫といった近代の作家の作品群、堀口大学や萩原朔太郎らの詩がそうである。現代なら村上春樹氏の著作も含まれる。言い換えると人間が言葉で紡ぎだす世界ということになる。

 では、大学の文学部で研究対象になるのは、言葉や文章で織りなされた作品だけを指すのか。答えはノーである。言語そのものや歴史、哲学も対象になっているし、音楽や美術、そして演劇やダンスも研究分野となっている。つまり、人間の精神や文化を含めた領域が文学部の研究対象となっている。

 ということは、文学イコール人文学であり、言語が繰り広げる世界や人間の内面、人間の精神が作り出す世界と定義されるのである。

 

 次に、ボブ・ディラン氏はミュージシャンであり、音楽の分野に関わっている。自分の言葉で歌詞を生み出し、曲も自身で作って世の中に歌を出している。この点では「文学」の範疇に収まる。

 受賞理由に関しては、報道を見る限りでは「新たな詩的表現を生み出した。現代の音楽への影響は計り知れない」とある。何をもって新たな詩的表現かは分からないので抽象的と言わざるを得ない。ディラン氏の曲をほとんど聞いたことがないので、私は確固たる評価はできないが、おそらく歌詞の言葉が「たぐい稀なる」ということなのだろう。

 私はむしろ、ディラン氏の曲が社会にしかるべきメッセージを発していたのではないか、そのため今回の受賞となったのではないかと考える。確かに、ディラン氏は反戦歌で知られた存在だという。例えば「戦争の親玉」「時代は変わる」がそうだ。また、アメリカ公民権運動の讃歌としての「風に吹かれて」もある。単なる人気歌手としてではなく、曲を通じて聴衆に社会問題を考えてほしいと暗に訴えていたのである。

 過去のノーベル文学賞受賞者をみると、この点は非常に重要である。一例を挙げると14年のパトリック・モディアノ氏である。このときは「フランスのナチスドイツ占領下における生活世界を(ユダヤ系の人間の視点から)明らかにした記憶の芸術に対して」という受賞理由であった。

 ここが、村上春樹氏の作品とは決定的に違う点である。村上氏の作品は確かに、ディラン氏の曲が世界中の人々に聴かれているように、日本のみならず世界中で読まれている。だが、村上氏の作品の登場人物は、社会を変えようと躍起になるわけでなく、政治的メッセージを発するわけでもなく、漫然と現状を受け入れながら生きる選択をする傾向にあるという。その点で、たとえ読者受けは良くても社会に訴えかける力は非常に弱いと言わざるを得ない。

 

 以上をまとめると、定義から音楽は人間の精神が生み出した産物であるので文学である。ボブ・ディラン氏の曲の詩は考え抜かれた言葉で強いメッセージを発していることから、この点でも文学としてふさわしい。従って過去の受賞者の受賞理由も考慮すると、ディラン氏は単なる人気作家である村上春樹よりもノーベル文学賞にふさわしい人物である。

 何かの間違い(カープみたいに“神って”!?)で1次突破したスペイン語検定3級。その勢いで2次も突破…といきたかったが、さすがにそれは許されることなく実力通り不合格だった。

 

 無理もない。3分間まともに話せなかったのだから。おまけにお題を取り違えてしまった模様だった。私は質問に聞き返したあげく「帰国子女を活用することは重要か?」と解釈したのだが、どうやらネットなどの情報を見る限りでは「帰国子女をどう活用していくか」というお題だったらしい。

 

 加えて私のスペイン語力は、活字に書かれたものなら3級レベルにかろうじて引っかかる程度であって、聞くことはもちろん話すこともおぼつかない(これで1次を通過しただけでも奇跡だったが…)。

 

 当面の対策は音声面の強化であろうが、まずは自分でもできそうな聞くことと音読か。

 遅くなりましたが、去る8月20日に1日の休みを利用して(要するに日帰りで)広島へ。国際アニメーションフェスティバルを見に行くためだった。

 

 今年で16回目を迎えるこの大会は、2年に1度、5日間の日程で開催され、世界中から主に商業アニメでない作品が多数寄せられ、コンペティションを行うもの。一般によく目にする日本のアニメに見慣れている方には新鮮に映ることであろう。過去には山村浩二さんがグランプリを取ったこともある。

 

 さすがに1日では…と思いつつも、原始的なパラパラ漫画はもちろん、手描きの暖かみのある、メッセージ性の強い作品をどうしても見たかった。今回はフランスの短編とフィンランドの短編に絞って見ることに。

 

 フランスの作品は、ポール・グリモーの短編集。タイトルは忘れたが、音楽で悪意に満ちた王様をも踊らせてしまう作品や、愛は何者にも勝ることを描いた「小さな兵隊」など、大人が見ても楽しめる作品だった。フィンランドの作品は人間の弱みというか本性を鋭く表した作品が見られ、こちらは考えさせられる点でのめり込めた。

 

 このほか、この大会の創設者の1人であるアニメーターの故・木下蓮三さんを特集したコーナーも見学。かつての「ホカロン」「赤福」のCMに登場したキャラを手がけたことでも知られ、そのひととなりと作品を紹介していた。

 

 次は2年後。どんな作品が出品されるか今から楽しみだ。なお、今回はマスコットキャラ「ラッピー」のぬいぐるみを手に入れることができた。前回大会では最終日に行ったためか、会場では既に売り切れていて、手に入れることはかなわなかっただけに、今回手にしてまずはひと安心(笑)。