よく思うことがあるんだ。
ココシャネルとヨウジヤマモトの
服作りの美意識に対する根源の類似性。
それは「女性の自立」にあると思う。
シャネルは
自分で香水の一つも選べないような女は
ダメだと言った。
(1910年〜当時は、女性の買い物は男性が着いていき、男性のお好みのものを買っていた時代)
初めて男性服を女性に改良して服作りをした。
セーラーマンからのボーダーなどがそうだった。(天才)
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ヨウジヤマモトは
ピンヒール全盛のパリコレクションで
初めて軍モノの男性のブーツを女性に履かせ女性の強さを表した。
ヨウジヤマモトの女性に対する根源は
「歌舞伎町という街は、いかに男性を誘惑するかを仕事にしている女たちで溢れていた。
それが、わたしの小学生の頃の女性というものの思い出だったから、男のための、ただ可愛いだけのお人形さんだけは絶対に作るまい!と心に決めていた…」
なにやら、ヨウジヤマモトは
男に媚びる女が嫌いなようです。
二人の美に対する共通点で好きなのです。
(山本耀司さんは80年代からパリコレ参加。
日本のブランドブームの立役者だ。)
美意識というのは、今の経験、過去の体験、見たもの、感じた事などを総合的に確認し
それが直感的な勘となり自分の好みが決まります。
僕の場合
「美意識の核を探す」KAWANE-WORKS
の研究セミナー89回を通してわかった事は
母と影響から今の美意識が出来上がったと思う。
アイデンティティ=自分であることの証しは
自分の歴史や体験によって、でき上がるものと
色んなものを通して学び、調べそしてフィルターにかけた結果、人と比べたりじゃなく、自分を深く探ることで
「自信」となって人前で
堂々といられることなんだと思うわけです。
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「ココ シャネルの生い立ちを見てみよう」
フランス南西部オーヴェルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれる。12歳の誕生日を迎える前に母ジャンヌが病死、行商人の父アルベールに捨てられ、孤児院や修道院で育つ。田舎町ムーランでお針子として18歳で孤児院を出た後、当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと夢見るようになる。
「ココ」は愛称で、情熱を実行すべく、お針子仕事の傍ら、歌手を志してキャバレーで歌っていた「Ko Ko Ri Ko(コケコッコウ)」と、「Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのはだれ)」という歌の題名にちなんでつけられたもの。
シャネル起業
その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。
1910年に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。
このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。(僕の知る限り、普通は返さないけれど、その資金は全額返済したという〜すごいね)
1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。
1918年に、第一次世界大戦が終戦。
シャネルの興隆から沈黙まで
1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「No.5」「No.22」を発表した。
このころ劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、ストラヴィンスキーやジャン・コクトー、ロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公などサロンの様々な人物と交際する。
この頃、同い年である画家・マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらったが、シャネルはそれを気に入らなかったためにローランサンに返した。この肖像画は現在、パリのオランジュリー美術館に展示されている。
1924年、イギリスのウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーと出会い、以降6年間に及び交際する。この間に彼から多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。同時期、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられた。
ウェストミンスター公爵と別れた後交際していたポール・イリブは1935年に急死。
1939年、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。苦労してその地位を築いたシャネルには労働環境を重視する彼らの考えを受け入れられずに対立し、シャネルは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。以後、同年9月に勃発し1945年8月に終結した第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期(いずれも後述)の15年間、シャネルはフランスのファッション界で沈黙を守る。
対独協力と亡命
第二次世界大戦中の1940年、フランスがアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツに占領され、親独のヴィシー政権下となった際、レジスタンスとしてドイツ軍による軍事占領に抵抗した結果、戦死したり、捕えられた末に拷問され処刑された人間がいた一方で、シャネルはドイツの国家保安本部SD局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将と懇意になる[1]。
このことから、1944年のシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合国軍によるフランス解放後に逮捕され、「対独協力者」、「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びた。しかし、イギリス首相であるウィンストン・チャーチルの計らいにより釈放され、その後シェレンベルクとともに戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送った[2]。
ファッション界への復帰
1954年、スイスでの亡命生活を終えパリに戻ったシャネルは、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界へ復帰を果たした。
シャネルの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っていた当時は、「古臭い」としてヨーロッパではバッシングを受けるなど散々だったが、「売国奴」と蔑まれたシャネルやドイツへの嫌悪感が大戦後10年近い年月を経て薄まった上に、ウーマンリブ運動によって女性の社会進出がめざましかったアメリカ合衆国では熱狂的に受け入れられた。
翌年シャネル・スーツの発表
(ブレードの縁取りがある、ウールのスーツ)
アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞。
死去
1971年、住居としていたパリのホテル・リッツにて
コレクションの準備中に87歳で没した。
亡骸は第二次世界大戦中のドイツへの協力及びフランスへの裏切り行為によって、高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、亡命生活を送っていたローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」(セクション9・No.130)に埋葬された。シャネルの遺言により、墓石の周りには白い花が咲き乱れている。
う
シャネルの生い立ちを調べると、男性に依存しない女の自立をテーマにしてるように思う。
夜に想ふ…
あなかしこ〜あなかしこ〜
さっ、ネイリストの若い子たちにむけて
4時間講演頑張らなくちゃ‼️😆
学ぶ姿勢を忘れない……札幌じゅん先生














