たとえば、目の前に
メスのウサギがいたとしよう。
もし、自分がオスウサギだったら
交尾したいと思うかもしれない。
一方で
自分が腹の減ったオオカミなら
それを食料として食べたいと思うだろう。
つまり、
そのウサギと交尾をしたいと思うか
そのウサギを食料として食べたいと思うかは
自分の選択ではなく
自分が雄ウサギか、オオカミかで
決まっているということだ。
そして自分が雄ウサギかオオカミかは
自分で決めていない。
あらかじめ決まっていることだ。
その『マトリックス・リローデット』を見た後
男女のコミュニケーションの権威である
ジョン・グレイ博士の恋愛に関する本を
たまたま読んだ。
そこに書かれていたのは、たとえば、
「男性は、
自分に尽くしていた女性が突然去ると
強く恋愛感情がわき上がることがある」
とか
「男性は、
自分が問題を抱えると
誰にも相談せず自分で解決しようとする」
など、
人間の性質が男女それぞれについて
書かれていた。
その本には、
僕のこれまでしてきた元恋人に対する言動や、
振られた直後の心の不安、
彼女が僕に振る舞った不可解な行動の理由が、
ほぼすべて書かれていた。
僕は、それを読んで愕然とした。
これまで、自分は「自分独自の考えを持ち
自分の意志で行動している」と思っていたが、
ほとんどすべての人間が
同じ状況下において同じような感情を持ち
同じようなことを考え
同じような言動を取ると書かれていたからだ。
映画を見たすぐあとにその本を読み
僕は自分で人生を選択しているのではない
誰かが書いたプログラムに従って
生きているだけなのだ。
ということに気付いたんだよ。
彼らがそうしたいのではなく、
「そういう心の性質」とか
「ある状態では人はそう振る舞う」
という説明でした。
人は一定のプログラムに従って生きている。
人によって執着の度合いや
社交性の度合いなどいくつかの
パラメーターがあり
それぞれのパラメーターの中で
ある程度の多様性を持っているが
その多様性を理解すれば、
その人がどのような刺激に
どのように反応するかが、予想可能だ。
たとえば、性に対する執着は
強い人もいれば、少ない人もいる。
また
見た目も佐々木希や石原さとみのように
極めてキレイな人もいれば
キレイでない人もいる。
そのような違いによって
その人の周りの反応は変わり
その人の振る舞いも変わるだろう。
だが、それをきちんと理解すれば
その人がどんな人生を選択するかは
ほとんど決まってくる。
映画『マトリックス・リローデット』
というのは、
コンピュターがそれをほぼ完全に予想し
人々を思い通りに動かし
その仮想世界を現実世界として
受け入れさせることに成功した世界が
舞台になっている。
実は人生は自分では選択していない
しかも、もっと言えば
「自分そのものすら存在していない」
と思っている。
多分ほとんどの人は
自分をこんな風に感じているだろう。
「自分とは他者と違い
唯一この世界を見ている意識」である。
また
「自分とは、
一生を通して同一性を保持して
存在するもの」
また
「自分はこの世界を限定された
範囲ではあるが
思うように選択できる主体」だと。
「唯一この世界を見ている意識」
というのは合っている気がする。
ただ、「一生を通して同一性を保持して存在する」や「思うように選択している」というのは錯覚だ。
「自分とは、一生を通して同一性を保持して存在するもの」を説明してみよう。
2003年に公開された映画『ウェイキングライフ』に、こんな話が出てくる。
ある女性が、赤ちゃんの写真を出し、「この赤ちゃんは1歳のころの自分」と言う。
そして、たとえば「このあと私は髪を伸ばし、都会に引っ越し、そして、ここに今、私がいる」なんて言う。
でもそれは作り事で、そのような物語を作ることで、
自分が「一生を通して同一性を保持して存在する」という概念を補強しているんだ。
自分という概念は、次の錯覚をもれなく連れてくる。
それは『「自分」というものがずっと同じもので、全く変わらない』という錯覚だ。
数年前の話だが、僕の知り合いで、オーストリアで事業を頑張っていて、
全くうまくいっていない女性がいた。
僕が「うまくいっていないなら帰ってくれば」と言ったんだ。
そうしたら、彼女は「私が決めたことだから」と言っていた。
自分がずっと同じものだと信じているということだろう
一方、ニック・ポータヴィー著『幸福の計算式』という本では、
中年の歯医者との会話が載っていて、それが興味深かった。
著者の友人がバーで出会った中年の歯医者に対して、
「ところで歯医者になって幸せですか?」と聞くと、
歯医者は「幸せ?私は不幸ですよ」と答えた。
それをからかうように「何ですって?そんなに不幸なら、そもそもどうして歯医者を選んだんですか?」と聞くと、
「私が選んだわけじゃありません」
と言い、衝撃的な言葉を発した。
「歯科医になることを選んだのは、
18年前の愚かな子供ですよ。
私じゃない」と。
これも、自分というのがずっと同じだと錯覚していることをテーマにした話だな。
恋愛においても、好きでもなかった女性が、自分の目の前から消えた時、急に強い恋愛感情が起こり、
「僕は彼女を好きであることに気付いた」なんて言ったりする。
でも本当は、気付いたんじゃない。
その時、その人がその条件により、変わったんだ。
ずっと自分が同じだと思っているから、産まれる前の自分や、死んだ後の自分もいると錯覚するのだろう。
言葉を話す前の赤ん坊など、今の自分とは全く別物だと思う。
人生は自分で選択をしていないし、自分もほとんどの人が考えているような自分などはない。
だから、芸能人がどんなに悪いことをしたとしても、実際のところほとんどは彼らの責任ではない。
彼らは、そんな肉体を与えられ、そんな環境に置かれ、巻き込まれた犠牲者だ。
もっと言えば、それを犠牲と感じているのも錯覚だよ。
錯覚の中で苦しんでいるだけだ。
何度も同じ犯罪をしてしまう人や、苦しい因果律を持っている人を見たら、
それを責めるべきではない。
「僕はたまたまそうならなくて運が良かった」と思うべきだ。
我々が、この現実世界にいるかぎり、この幻想に巻き込まれ続ける。
しょっちゅうこの話をするので、そろそろうんざりするかもしれないが、その幻想こそが、仏教で言う無明(むみょう)だよ。
本当の世界が見えていない。見えていないが故に迷い、苦しむんだ。
娑婆(しゃば:仏教の言葉で煩悩や苦しみの多いこの世を指す)である
こっちの岸にいては、無明のない悟りの世界にいくことは出来ず、
あっちの岸である彼岸(ひがん:仏教の言葉で、
悟った人がいける向こう側)は、現実世界から離れたところにあるんだよ
そのイジワルって価値観も、"神様"に与えられたものだ。
ここでしょっちゅう触れている生物がもつ2つの方向性、「自己の維持」と「子孫繁栄」の中で産まれた概念だよ。
我々の設計者、つまり自然は、
善意も悪意も持ってない。
重力や電磁力と同じようなもので、ただ、法則があるだけだよ。
我々の設計者は、
個体がどんな風に人生を過ごすかなんて全く関心がないんだ
たとえば、マンボウは、一度に3億個卵を産むが、
親になるまで食べられず生き残るのは数個しかない。
残りの2億999万997個くらいの卵の"人生"など考えられていない。
たまたま人間は、
「手間ひまかけずに、多く産んで、そのごく一部が生き残る」と
いう選択ではなく、
「少なく産むけど、手間ひまかけて、なるべくそれを生き残らせる」という進化上の選択をしているに過ぎない。
その選択の延長上に、"自分"という概念が産まれた。
そこから抜け出したいなら、仏教的に悟るしかない。
だが、ほとんどの人間にそれは無理だ。
映画『マトリックス・リローデット』中で、メロビンジアンという未来予想プログラムは次のようなことを言っている。
「我々はこれら全てのことを知っていても、生き方を変えることはできない。 知っていることはせめてもの慰めだよ」と
芸能人がいろいろな問題を起こしたりするがそれは彼らのせいではない、という話で 我々は、彼らを批判したり彼らに怒ったりする必要はない。
ただ、彼らがどのような因果律を持っていて、どのような環境でそれが起きるのかを見ていれば良い。
それが今後の人生に役に立つ。
「役に立つ」って概念も、
人間の設計者のためのものだけど。
mixiで誰かの記事より抜粋しました。
こんばんわ、じゅん先生です。
秋ですね~恋の秋ですね~。
恋してますか? ← なんて唐突な(笑)