流れてくる水を見ながら、
次に何が流れてくるか、  
それに眼を吸いつけさせるのが

モードだとすれば

流れてくる水へのその川上向きの視線を裏返すことで
つまり、水の流れが消え行く方向にまなざしを転換することで
次に「いま」になるものでなく、
たちまち「いま」でなくなってゆく時間・・・
そのフェイズに眼を捉える。

「いま」という時間、山本はしばしば「刹那」と表現するが

そういう気分で、壊れゆくもの、消えゆくものとして 「いま」にふれてるのだろう・・・・

言ってみれば、 山本は後ろ向きに未来のほうを向いている。

こんな言葉でヨージの服つくりの原点がうかがわれる。

こんな言葉もある・・・

女について
「映画「日曜はダメよ」でメルナ・メルクーリ演じる一人の娼婦が 日曜日に休業し、一週間の間に自分と寝た男たちを全部招いて 一緒に食事をし、

それから揃って海へ泳ぎにゆく・・・
(なんて大らかで明るいんだ(笑)

逆に 東京・吉原のひとりの情婦が
「月を眺めて目に涙、あける年期をまつばかり・・・」

と一人エレジー(悲歌)をつぶやくのと そのどちらが幸福か?と問う・・・

答えはあきらかだが・・・・・

こういう問いを立てたのは 言うまでもなく彼が「不幸な女」の懐で生きてきたからである・・

山本もまた「不幸な女」が嫌いなんだろうと思う

「きらい」なのは、やはり 「きれいじゃない」からだと思う

吉原の娼婦の読んだ唄じゃなく
「忘れねばこそ、思う出さず候・・」 とい意気地を見せて欲しいと・・・・

その存在の悔しさを、知るがゆえに思うはずだ

「野暮は、揉まれて粋になる・・・」

その意気地があって初めて 「不幸」は「きれいじゃない」と言い切れる

山本耀司が思いをはせている「女」 という存在の圧倒的レアリテには
いつもこうした

「光ではなく」翳りが射している。

山本の黒とは色という色をすべて吸い込む抱擁の黒であるとともに この翳りの深さでもあるのだ・・

存在の乏しさを服でまとい埋めるのではなく 存在が乏しさが乏しいままでそこに醸し出すエレガンス・・・

イメージでなく、存在が幸少なきままに 醸し出すエレガンスが問題なのだ!

ヨウジヤマモトの美学