ラーメンいろいろ食べてると、
美味しい、とか、
美味しくない、とか、
考えなくなってくるんです。

他のマニアの方々はどうか分からないけど、
少なくとも僕はそうです。
明らかに口に合わない、というのは別にして、
多少の好みの違いは、どうでもいい。

おそらく現在も過去も、
多くのラーメン好きと呼ばれる人が、
そのような道を辿っているように見受けられます。
おおよそ食べ始めて2年くらいで、
飽和状態がやってくる。
(個人差はありますが、自分を例に挙げると)
それからは惰性で食べていたり、
忽然といなくなったり。
沢山そういう人を見てきました。

ですから、10年以上もラーメンマニアを続けているような人は、
求道者だと思います。
プロフェッショナルです。
イチローと同じ部類です。
そういう方々は尊敬に値します。


しかし、僕のような一般人は、
それよりも、
店主さんの境遇とか、
お店を出した経緯とか、
どうやって店を流行らせるのかとか、
そちらの方に今は関心を持っています。

美味い不味いってのは、
感覚の問題ですが、
ラーメン店見てると、
美味い不味い関係なく、
(一定の基準はあるにせよ)
流行るとこは流行ってるんですよね。
なんでここが…ってところに、
行列が出来てたりする。

自分にとっては、
味よりもそっちの方に興味があります。

だから、別にラーメンじゃなくてもいいんです。
バルとか高級フレンチとか。

しかし、愛知近隣のラーメン店のことは、
それなりに知識はあるつもりなので、
取っつきやすいんです。
別の飲食店の売れる仕組みを探ろうと思ったら、
また1から勉強しなくてはならない。
それはそれで価値があると思いますし、
きっといつか勉強するでしょうが。

飲食店をやろうってわけじゃないですが、
そんな事を考えてる方が、
面白いってことに気付きました。

話は逸れますが、
ラーメン発見伝とか、
ほんと細かすぎる程に細かいですよ。
ラーメン屋の経営戦略に関して。
いや、凄腕ラーメン店主や、
名うてのラーメン業界人からすると、
「あそこに書かれている事は初歩の初歩に過ぎない」と、
仰る方もいるかもしれませんが、
僕のような一般人からしたら、
本当に細部までラーメン店事情を知り尽くしている、
と感じます。

あれだけ多角的に、
一種のビジネスライクな視点で、
ラーメン店を観察することは難しいですが、
そんなところに心が向いているのが、
今の自分です。

ラーメンの楽しみ方。
黙々とラーメンを食べ続ける人、
SNSに投稿していいねが欲しい人、
写真撮影に気合を入れる人、
新店を巡るのが好きな人、
閉店してしまう店を巡るのが好きな人、
ノスタルジックな店が好きな人、
限定が好きな人、
同じ店に通い続ける人、
遠征する人、
行列に並ぶのが好きな人、
記録を取ってデータベース化する人、
点数をつける人、
批判をする人、
コミュニティ作ってワイワイしたい人、
出会いの場にしたい人、
自らイベントや企画を開く人、
店主とのつながりを作りたい人、
ラオタとのつながりを作りたい人、
記事を書いてお金を貰う人、
お金を稼ぐ手段としてラーメンを使う人、
youtuberとして活躍する人、
独学でラーメンを作ってみる人、
高じて自分でお店を開店する人…

本当に、千差万別だと思いますが、
今の僕に関しては、
上に書いたとおりです。

目に見えない宇宙生命のエネルギーを、古語では「カ」と言いました。
つまり、神の「カ」です。
その神から御魂をいただいた人間の身体をカラダと申します。
カの象徴的な存在を鏡として神様の御神体に使われております。
身体のカ、力のカ、鏡のカなど、このカという一語で大自然宇宙のエネルギーを統制する宇宙生命というものを、我が国の古代の人は認識しておりました。

 

 

ずっと見たかった映画です。

とりあえず、ここまでで映画評は一旦中止。

しばらくは休止です。

 

ライフイズビューティフルは、

ナチの強制収容所に入れられた親子のお話です。

 

その切り口は「シンドラーのリスト」みたいに苛烈なものではなく、

若干、ファンタジー的世界観が混ざっているような、

例えるなら「ホーム・アローン」のような、現実には有り得ないユーモア的構成で、この映画は作られています。

 

「哀しみ」の感情を揺さぶるには、

その対極の要素が必要なのだと思います。

 

例えば僕が高得点を付けた「グラン・トリノ」なら

あんなに怖く厳格だったコワルスキーが自らの命を張ってまでタオの幸せを願った。

「厳しさ」⇔「優しさ」ですよね。

 

「北の国から84夏」も同じく、

吾郎が初めて純のために他人を怒り、純を許し、厳格だった父親の優しさを見せた。

あれも「厳しさ」⇔「優しさ」の類。

本当はもっと色んな要素が含まれてるんですけど。

 

「ロッキー」は、何でしょう。

敢えて例えるなら「諦め」⇔「不撓」。

今までの自分は八百長ボクシングをし、借金取りの仕事をする、どうしようもないチンピラ。

しかし世界チャンプ・アポロとのマッチが組まれた。

もし、そこで15R立っていることが出来たら、俺はただのゴロツキでないことを証明できる…

また、そこにエイドリアンとの愛を絡めることで、感動のパワーを増してるんですね。

自分が今どうしようもない人生を歩んでると思う野郎ほど、ロッキーに心打たれるはずです。

 

 

そんな中、「ライフ・イズ・ビューティフル」は何でしょう。

おそらく「ユーモア」⇔「現実」かな。

 

ちなみに僕はこの映画では泣きませんでした。

涙腺刺激センサーは何度かありましたが、泣くに至らず。

でもって、一番ウルっときたシーンが、グイドがドーラにシルクの赤純痰を広げる所なんですね。

前半です、起承転結だと未だ起の部分。

あと、テーブルの下でキスをするところも少しきたかな。

 

しかし、後半のシリアスな部分になると、イマイチ来ず。

何でだろうと自分なりに考えてみたところ、

対極となる「ユーモア」と「現実」のうち、

「ユーモア」の比率の方が高く感じたから。

 

むしろ前半の方が、「現実」=「恋愛」であって、

グイドの「ユーモア」よりも、「恋愛」のほうが上回った。

そこに涙腺が弱まったんです。

 

しかし、後半においては「現実」=「家族愛」で、

その「家族愛」には自らの死を以てしても、打ち勝つような愛を見せなければならない。

つまり、そこには死への恐怖、必然、離れ離れになることへの恐怖も描かれなければならないわけですが、

僕の感覚だと、そこまでは描かれてなかった。

寧ろグイドや、収容所の世界観の「ユーモア」の方が強く感じて。

 

一種のターニングポイントたる、グイドの死も、本当に死んだのかは分からなくて。

多分、ここが決め手なんですね。

その後、戦車に乗っていたのが米兵だったので、

「ああ、グイドは死んだのか」と気づくのですが。

あの1シーンの捉え方で、この映画への見方も変わるはずです。

 

それでもやっぱり、ラストの母と子が「僕たちはゲームに勝ったよ!」と言うシーンはグッと来るものがあります。

あそこは、泣くというよりも心温まるシーンに近いものがあります。

何故ならジョズエは父の死も、守られたこともその時分からないから。

あそこでジョズエがもう少し年齢が上の、成長してる設定で、父の役割に気づいていたなら、また感じ方も変わるでしょうね。

 

総合評価は84点。

心温まる、もう一度、見たいと思える映画でした。