馬ノ山登り口(鳥取県東伯郡湯梨浜町)

 

観光案内板

 

 現在ではほとんど使われることは無いが、碁や将棋で「背水の陣」に相当する一手のことを「吉川が橋を引きたる陣構え」と言うそうだ。
 吉川とは毛利元就の次男、吉川元春の事で、天正9年(1581)伯耆国の東部、現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町において、元春が織田軍の羽柴秀吉と戦った故事にちなんでいる。

 

馬ノ山展望台

 

展望台から臨む東郷湖。右手に橋津川が流れている。

 

現地説明板

 

 天正9年(1581)、因幡国の鳥取城は後に『鳥取城の渇え殺し』と称される羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の兵糧攻めにより落城する。
 城が落ちたその日、救援に向かっていた吉川元春は、兵六千を率いて東伯耆の東郷湖北岸にある馬ノ山に着陣していたが救援には間に合わなかった。
 鳥取城を落とした秀吉は、東郷湖の南側にある羽衣石城へ立てこもる織田方の南条元続を救援するため、直ちに六万の兵を率いて伯耆へ入り、東郷湖畔の御冠山に陣を敷き、その動きを知った元春は馬ノ山に留まり両軍が対峙。元春は圧倒的な兵力差を前にしても怯む事なく、退路となる橋津川の橋をことごとく落とし、数百の船はすべて陸に揚げ、櫓は残らず折り捨てるなど正に背水の陣を敷いて戦いに臨んだ。
 元春の覚悟を知った秀吉は、このままでは自軍にも多大な被害が出ることを察し、羽衣石城へ支援物資を運び込み城を出ないように指示したうえで姫路へ撤退、一方で元春も秀吉の退却を見届けた後に軍を出雲へ引いていった。秀吉・元春の両雄は互いにその器量を認めあい、戦わずして別れたのである。
 そして、この一戦で吉川元春の評価は益々高まり、碁や将棋の世界で背水の陣に吉川の名が使われるようになったという。
 

馬ノ山古墳群(橋津古墳群)

 

ハワイ風土記館

 

 元春が陣を敷いた馬ノ山の丘陵は標高107m。馬ノ山古墳群(橋津古墳群)と呼ばれる、古墳時代前期(4世紀)から後期(6,7世紀)にかけての大小25基の古墳が点在している。
 元春は古墳の上に陣を敷き、陣の前に堀を掘り、土塁を築いて防御を強化したと伝えられている。
 現在、馬ノ山は、ハワイ風土記館などがある「馬ノ山公園」として整備されている。
 馬ノ山からは吉川元春も眺めたであろう東郷湖を眺めることができる。湖畔にある「はわい温泉」の「望湖楼」では棋聖戦や名人戦などが度々行われている。
 

【囲碁史人名録】 吉川元春

【住所】