宮重作兵衛信秀の墓

 

宮重信秀の戒名(右)

 

亡くなったのは正保3年

 

 十一世本因坊元丈、十三世本因坊丈策の先祖である江戸時代初期の御家人、宮重作兵衛信秀の墓が、作兵衛が中興開基となった戒行寺(新宿区須賀町)の墓所にある。
 墓所はもともと戒行寺境内にあったが、現在では遠く離れた杉並区堀ノ内にある日蓮宗本山・妙法寺の北側にある他の寺院との共同墓地に移転している。

 

補修を行った子孫の名に元丈の兄、作十郎の名

 

 宮重信秀が亡くなったのは正保3年(1646)であるが、墓石に刻まれた内容を読み解くと、亡くなってから150年後の寛政7年(1795)に、当時の子孫が出資して大規模な補修を行っている。
 墓石には補修を行った子孫の名が刻まれているが、その中に「宮重作十郎信敬」という名がある。宮重作十郎と言えば本因坊元丈の長兄の名と同じで、年代的にも間違いないと考えられる。作十郎や元丈は信秀の六代後の子孫で、作十郎は大御番小笠原近江守の組与力を勤めている。
 墓が補修された寛政7年は、宮重楽山を名乗っていた元丈が四段へ昇段した翌年。この年、師匠・本因坊烈元の跡目候補であった河野元虎が亡くなっているが、楽山が五段で跡目となり元丈と改名したのは寛政10年(1798)の事である。
 もし墓が補修されたのが元丈が本因坊となった後であれば、元丈も補修した子孫の一人に名を連ねていたのかもしれない。
 

戒行寺歴代住職の供養塔

 

墓誌に刻まれた山本勘助の孫、日貞上人の名

 

 余談であるが宮重作兵衛信秀の墓の隣りに歴代住職の供養塔が建立されているが、戒行寺は甲斐の武田家とのつながりが強かったようで、10世・円正院日貞上人は武田信玄に仕えた明軍師・山本勘助の孫と伝えられている。歴代住職供養塔の墓誌にその名を見ることが出来る。
 

【囲碁史人名録】
 本因坊元丈・丈策の先祖 宮重作兵衛信秀
【住所】