快楽院

 

墓地は十一ヶ寺の一番奥にある。

 

林家の墓。墓石に歴代当主の戒名が刻まれている。

 

台石に刻まれた「碁所」の文字。普段は香炉に隠れている。

 

「林家」と刻まれた香炉

 

 練馬区練馬の都営大江戸線・豊島園駅の駅前にある田島山十一ヶ寺(浄土宗十一ヶ寺)は、浅草にあった田島山誓願寺の11の塔頭が関東大震災による被災のため移転してきた寺院群である。
 その中の一つ快楽院は囲碁の家元林家の菩提寺であり、墓所には林家の墓がある。
 林家の初代林門入(門入斎)は、初代本因坊算砂のライバルで、「本能寺の変」前夜に本能寺で算砂と対局を行ったと言われる利玄の弟子で、歴代当主は林門入の名を継承している。
 初代林門入斎は幕府より屋敷拝領と俸禄を得ているが、それはあくまで個人としてで、立家する事なく寛文7年(1667)に亡くなっている。
 林門入斎の死後2年経った寛文9年(1669)に、安井算知は門下の一人に林家の俸禄を継がせて林門入を名乗らせている。こうして林家は囲碁家元四家の一つとなり幕末まで続いていく。
 ただ、林家は立家したのが遅く、名人も輩出していないため、それほど大きな勢力では無く、後継者がいないため本因坊家から跡目を迎える事も多かった。
 明治期の最後の当主・十三世林秀栄は本因坊秀和の次男で、11歳で十二世林柏栄門入の養子となる。しかし、幕府崩壊による混乱の中で、兄の十五世本因坊秀悦が精神に異常をきたして隠退。
 末弟の秀元が急遽十六世を継いだものの、まだ低段で新興勢力「方円社」にないがしろにされたことから、兄の秀栄が本因坊家へ戻り名跡を継いでいる。
 秀栄はこの頃、養母との折り合いが悪く別居していて、家名は囲碁とは関係の無い親戚が継ぎ、碁家としての林家を秀栄が継承していた。そのため秀栄の本因坊家復帰にともない家元としての林家は絶家となっている。
 家元林家はこうして終焉を迎えるが、分家林藤三郎の養女林佐野、及びその養女の林文子(喜多文子)が、明治時代に女流棋士の先駆けとして活躍していき、多くの棋士を育てている。
 

【住所】