末吉城跡

 

山中鹿之助供養塔

 

 鳥取県西伯郡大山町末吉の国道9号線末吉交差点に「山陰の麒麟児」の異名を取る戦国時代の武将・山中鹿之助の供養塔が建立されている。
 このあたりには昔、鹿之助が籠城し毛利勢と激しい戦いが繰り広げた末吉城という城があったという。
 海に面し船での戦いに有利な城だったと言われるが、現在は海岸線も変わり遺構が見つからず、具体的な場所は特定されていない。
 山中鹿之助は出雲を拠点に中国地方で一大勢力を誇った尼子氏の武将であったが、尼子氏が毛利氏に降伏したのち、尼子家再興のため出家していた尼子勝久を擁立し挙兵する。
 尼子軍のもとへは毛利勢の軍門に下っていた元家臣達が次々と参加するが、当時の末吉城の城主・神西元通もその一人であった。
 尼子十旗の一人で出雲の神西城城主であった元通は、尼子氏が降伏した際、尼子氏の居城・月山富田城に籠城していたため、毛利方の軍門に下った後も自分の領地へ帰ることが許されず末吉城主に任命される。
 挙兵を画策していた鹿之助は神西に接触を図り、尼子側に味方する約束を取り付けるが、末吉城には毛利の目付である中原善左衛門、小寺佐渡守が滞在していたため簡単にはいかなかった。
 そこで策をめぐらした元通は、小寺が所要で芸州へ出向いた隙に、林阿弥という囲碁の強豪を呼び碁会を開いている。
 城に残っていた中原善左衛門は囲碁が大変好で、林阿弥との対局に夢中になるが、それを見ていた神西が囲碁の助言のように「そこを切る」と発言した瞬間、潜んでいた刺客が中原に切りかかり斬殺。こうして、神西元通は寝返り末吉城は尼子方の城となった。
 

説明版

 

 永禄12年4月(1569年5月)に挙兵した鹿之助は出雲国を中心に勢力を拡大していくが、毛利元就は毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らを鎮圧にあたらせ、毛利軍の猛攻により尼子軍は海軍の拠点である末吉城を奪われるなど劣勢に立たされていく。
 しかし、安芸国で元就が重病に陥り、吉川元春を残し毛利軍の一部が引き揚げたことで尼子軍は勢力を盛り返し末吉城を奪回。
 毛利劣勢の知らせを聞き援軍派遣を命じた元就が    元亀2年6月14日(1571年7月6日)に亡くなると、吉川元春は弔い合戦と称して猛攻撃を開始。
 尼子勝久や神西元通は但馬方面に逃れ、末吉城に立てこもった鹿之助は、ついに降伏している。
 吉川元春は当初鹿之助を処刑しようと考えていたが、名将として知られる鹿之助を毛利へ引き入れるよう進言する家臣の意見を聞き入れ、一旦、大山の麓にある尾高城へ幽閉する。
 しかし、鹿之助は尾高城策略を脱出し勝久らと合流。中国地方進出を狙う織田信長の協力を得て、信長配下の羽柴秀吉の指揮で播磨国の上月城を攻略している。
 毛利勢は上月城奪回のため大軍を率いて城を包囲したが、頼りにしていた羽柴秀吉は三木城攻略のために援軍を送ることが出来ず孤立した尼子軍は城を開城し、尼子勝久や神西元通は自害、鹿之助は投降し毛利輝元のもとへ護送されるが、再度敵対する事を恐れた毛利の家臣により、その道中で謀殺されている。
 

美甘塚

 

説明版

 

 大山町末吉の鹿之助の供養塔の隣りに、鹿之助に投降を呼びかけ殺害された使者、美甘与一右衛門を供養する「美甘塚」があるが、その説明版には対囲碁の対局中に殺されたという中原善左衛門は、美甘と共に投降を呼びかけた際に殺害されたと書かれているため、死因には諸説あるようだ。
 

【囲碁史人名録】 尼子十旗 神西元通

【住所】