徳川家康 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

徳川家康

 

 江戸幕府を開き戦乱の世を終息させた徳川家康は、戦国武将の中でも特に囲碁に傾倒した人物として知られている。
 豊臣時代の文禄3から翌年にかけて40回近い碁会を開催するなど当時の囲碁界の大スポンサーであり、幕府を開いた後は有力な碁打ちを江戸へ招き禄を与え家元制度確立につながっていくほか、御城碁実施の下地を整えるなど囲碁が発展していく上で重要な役割を担っている。
 平成16年には、その功績を讃え日本棋院の囲碁殿堂入り(第一回)をしている。


【囲碁を始めたのはいつ】
 家康が囲碁を始めた時期は定かではないが、はじめはあまり碁が好きではなかったらしい。
 息子秀忠が征夷大将軍となって7年目の慶長17年に書かれた、家康から秀忠の妻お江にあてた手紙の中に次のような記述がある。
 「我はかつて人が碁を打つのを見るにつけて、周囲に迷惑を与えるだけで何の役にも立たないと決めつけ、これを好む人は間抜け者のように思っていた。ところが最近、碁を覚えはじめたところ、雨降りや忘閑の慰みにもなるし、以前、間抜け者と思っていた者とも碁を囲っている。」
 これは、ことあるごとに秀忠に小言を言っていた夫人が、将軍である秀忠があまりにも囲碁・将棋に熱中しているので意見し、そのあまりに厳しい追及ぶりを耳にした家康が心配して手紙をしたためたものと推測されている。
 手紙では続いて「昔から物事は何か理由があるからやっているのであって、くれぐれも自分が気にいらないことを良くないと思わないことだ。自分もただただ知恵の足らないことを朝夕思案している」とお江を諭している。
 また、家康から十代家治までの江戸幕府の公式史書『徳川実紀』には、家康について「無用の遊びは好まなかったが、ときには能楽や囲碁・将棋などを暇つぶしに遊んだ。しかし深く心にとめたわけではない」と記述されている。
 さらに「織田信雄のように織田家をつぶし、国の統一も果たせず、能ばかりうまくなっても何の益があろうか。まぬけ者というべし。徳川殿は(囲碁や将棋など)雑技に心をうばわれず、つねに弓矢を取らせて家康の上に出る者はいない。皆の衆、小事にかまけて大事にうといということは、これ又まぬけ者というべきだ」という記述もある。
 ただ『徳川実紀』は幕府の公式史書であるため東照大権現として神格化された家康についてかなり偏った見方をしている。
 たしかに戦乱の世においては家康も囲碁どころではなかったかもしれないが、秀吉により天下統一がなされて以降は碁を嗜む余裕ができ、熱中していったのではないだろうか。
 ちなみに、史書など公式な記録における家康の囲碁に関する最も古い日付の記述は、寛永年間に成立した『当代記』にある天正十五年閏十一月十三日の記述である。
 その前年に家康は大阪城で秀吉に謁見し諸大名の前で臣従を表明。この年の春に秀吉は九州を平定し、9月に聚楽第が完成するなど天下人としての体制を着々と整えている。
 家康の囲碁の記述であるが、「本因坊(算砂)が新城へ下ってきた。城主の奥平九八郎信昌はこの夏、京都において算砂の弟子になっていた。その後、算砂は信昌と共に駿河へ赴く。家康公は囲碁を好まれ、算砂と日夜打たれた。」と書かれている。
 家康が囲碁に熱中していた事がうかがえ、算砂が駿河に逗留しているあいだに手ほどきを受けていたのであろう。ただ囲碁を始めた直後に日夜打つほど熱中するとは考えにくいので、この当時家康はそれなりに打てていたのではないだろうか。
 算砂の弟子である新城城主・奥平九八郎信昌は家康の娘婿である。新城が築城されたのは天正4年の秋で、完成披露には算砂を招いている。家康も出席していると思われ、両者は駿河で会った時はすでに顔見知りであったのかもしれない。
 なお、『当代記』の編纂者は姫路藩主松平忠明とも言われているが、忠明は奥平信昌の四男で家康の外孫にあたる人物である。


【好敵手】
 天正18年(1590)に家康は秀吉から関八州への移封を命じられ江戸城に入るが、その翌年あたりから数年にわたり家康の囲碁との関わりが増えてくる。
 公卿・山科言経の日記『言経卿記』には頻繁に家康の囲碁のはなしが登場しているが、それによると碁会で家康と同席した主な人物は、浅野長政、金森法印、山名入道禅高、細川幽斎、古田織部、南禅寺三長、藤田勘右衛門、水無瀬右兵衛監、伊達政宗ら実に多士済々。
 その中でも最も家康と顔をあわせていたのは浅野長政である。両者の好敵手ぶりは当時かなり知れわたっていたらしい。
 実力がほぼ同じだった両者は頻繁に碁を囲み、浅野家の記録『浅野考譜』には「慶長8年より15年までの間、囲碁の御相手のため、たびたび(家康と秀忠に)召し出される。これは両御所と内密で天下の政務についてご相談のためである」という記述がある。
 しかし「天下の政務」というのは口実にすぎず、碁敵である家康と長政はひたすら碁を囲んでいたと考えられている。
 長政は慶長16年(1611)に亡くなっているが、『徳川実紀』には、「長政が亡くなったのち、家康はしばらくの間、碁を囲むことがなかった」とある。好敵手を失った悲しみは、いつの世もかわらぬということであろう。
 家康は、長政のほかには細川幽斎(藤孝)ともよく碁を囲っていたようだ。家康主催の碁会に幽斎はほとんど出席しているし、幽斎自身もかなりの回数碁会を催している。
 あるとき両者は伏見から船に乗り大阪の前田利家の館へ向かっていたが、船中では囲碁を打っていたという。
 その席には浅野長政をはじめ、福島正則、池田輝政、黒田孝高(如水)、加藤清正、藤堂高虎ら、後に関ヶ原合戦で東軍として戦う面々がいた。
 そこへ石田三成がひょっこり顔を出したので一同すっかり興醒めしたと伝えられている。
 慶長15年(1610)に幽斎が没すると、将軍家では三日間にわたり囲碁・将棋が差し止められたと記録されている。また幽斎の遺言により、愛用の盤石が家康へ譲られている。
 碁盤といえば、家康と豊臣秀吉が対局したと伝えられている碁盤が、京都大徳寺龍源院(梨子地四方金蒔絵碁盤・碁笥)に残されているが、家康と秀吉が対局した記録は残っておらず、この盤で対局したという証明はできないそうだ。
 

【碁打ち衆の重用】
 家康は単に囲碁の愛好家というだけでなく、囲碁を天下取りの手段として用いていた。
 秀吉の死後、頻繁に京都で碁会を催しているが、それは大名達を取り込んだり京の政財界人から情報収集する目的があったと考えられている。
 公家が開催した歌会に家康が出席した際も、碁打ちを同行さえていたと記録されている。
 こうして碁打ち衆は家康に重用されていくが、その中でも家康に最も信頼されたのが本因坊算砂であり、算砂は幕府成立と共に囲碁界のトップへ登り詰めていくことになる。