今は、仕事の時間なのですが

(一人でいる事が多い事務所なのよw)

shizuさんのブログを読んで、

朝から泣けてしまいました・・・。

 

場面緘黙症。

 

声が出ない、しゃべれない、

単語が出ない、

 

 

時には、

吃音の人もいるしドモってしまう人も

あると思うんだ。

 

私も子供時代特にだったけど、意図しないのに

チックが出てしまってた。

他人と食事するのも辛かった。

ドモリもあった。

そして、文字を見るとその文字がフラッシュの様に

迷路化してしまうLDや、

数学でよくあったのですが、

どこから読めばいいのか分からない。

どこをどこに回答すればいいのか分からない。

今で言うと、配列の認知かかなりイビツで。

 

その時々の認知なので説明も難しく

他人からも理解しづらかったと思う。

 

時には、過呼吸になり嘔吐の様な咳をすると

大抵がわざとしていると思っている。

 

そして、表情が分からないから

他人からみたら笑い声なくても

笑う表情に見えている。

 

子供時代、顔面神経痛という

あだ名がついた時もありました。

 

でも、他人から見たら私の環境は苦痛に見えても、

本人は、自分の世界はいつでも

ココ以外にあるのは分かってました。

 

だから、時には苦しい時もあったけど

(子供は気にしなければ、

相手が苦痛に思わせるまで行動を繰り返す)

他人が思っている程、苦痛ではなかったのです。

 

 

たまたま、個性のある先生がいてね。

(国家を歌わない教育をする先生)

 

その先生が

「curocoさんは、私の事嫌いなんですね」と

言ってくる先生だったのよね。

 

また、私は提出物が苦手で忘れ物も多い。

可愛いければ、手のかかる子なんだけど

なつかないので、先生もほっといてくれるようになり。

(時には、「分からなかった」とわざと飛ばす)

 

それを問題視する大人やクラスメイトもいたけど

(昭和はそれを許されない事が多い)

その先生と関わらないと自分は幸せになるので

それでかなり精神の安定と、

自分の表面には映し出さない個性や

趣味を確立していくきっかけになれたと思う。

 

その先生がたまたま3年間クラス替え無しの

担任変え無しだったのは凶だったかもしれないけど

長い年月は、自分には自分の世界があるのを

教えてもらえったきっかけになれたと思う。

 

今回のshizuさんのブログを読んで

その先生を思い出しましたw

 

他人とはちょっと違うかもしれない、

何等かってのは、人それぞれあると思う。

 

その、他人とは違った所を持っていても

それは、実は自然であり

他人の中で、変わってると思われ辛い人ってのは

その変わった面が、他人の目には触れられ辛い

所にあるんだと思う。

 

そう思い帰ればさ、

場面緘黙症を持った人と同じ空間にいて

お互いに自然に楽しめる空間を作るのは

単純でとてもシンプルなんですよ。

 

 

 

“それでもいいんだ”と思ってくれている。

 

その部分は、彼(彼女)の一部でしかないと思っている。

 

インクルーシブ教育の環境に

入っている軽度のお子さんにも

この気持ちは共通すると思うけどね、

こういう気持ちを周囲の人が備えてしまえば、

場面緘黙の方も、しゃべるまで待たれてしまう機会が無くなるよね。

 

別に、しゃべらなくてもいいんだよね。

という、とてもシンプルだけど

なかなか気付く事が出来ない・・この社会。

それをshizuさんが教えてくれました。

 

 

 

学校なんて、会社なんて、

四六時中、

発表会やプレゼン、

音読・報告と支持をしている訳ではない。

 

なぜ、四六時中に発表会(音読も含む)や

プレゼン(報告・指示等も含む)を

している訳ではないのに、

急に心配へと持ち込む必要があるのか。

 

 

それでもいいと思ってくれている。

その部分は、彼の一部でしかないと思っている。

 

私達だって、いつもそう思ってるんだから

自然に相手にしてればいいだけかもしれないね。

 

場面緘黙の方にも、私と同じく

他の世界を持っているのだから、

別に、たまたま私の目の前では話をしてないだけなんだ。

 

それならば、この場では

互いに自然な気持ちでいられる場所の方がいい。

 

shizuさんのブログを見て、

思い出した事と、これからもしも場面緘黙の方が

職場に入った時はそうでありたいなと思ったわ。