51. 過去を引きずること
勇気を持ちなさい――旅はすでに始まっている。たとえ引き返したとしても、もはや以前の岸辺に戻ることはできない。仮に戻れたとしても、かつての古いおもちゃはもう何の役にも立たない。あなたはすでにそれらを卒業しているし、それが単なるおもちゃだったと気づくはずだ。今こそ、本物を見いださなければならない。それを探求しなければならない。そしてそれは決して遠くにはない――それはあなたの内側にある。
過去に従って生きる人は、必ず退屈や無意味さ、そしてある種の苦悩を感じることになる。「私はここで何をしているのか? なぜ生き続けているのか? 明日には何があるのか?――今日の繰り返しがまたあるだけではないのか? そして今日も、昨日の繰り返しに過ぎなかった。」それでは何の意味があるのか? なぜ同じ習慣の中で、ゆりかごから墓場まで自分を引きずっていくのか?
それは水牛やロバにとっては問題ない。なぜなら彼らには過去の記憶も未来の観念もないからだ。彼らが退屈しないのはそのためだ。退屈には、ある程度の意識が必要だからだ。その意識は、「以前にもそれをやった、今もやっている、そして明日もまたやるだろう」と気づいている。なぜなら、あなたは過去から離れようとせず、それを死なせず、生かし続けているからだ。これが誰もが人生で直面するジレンマであり、その唯一の解決は、過去を死なせることだ。
イエスの生涯にまつわる美しい話がある。彼はある湖にやって来た。早朝で、まだ太陽は昇っていない。一人の漁師が、ちょうど網を湖に投げ入れようとしていた。イエスは彼の肩に手を置いて言った。「いつまでこんなことを続けるつもりだ? 毎日、朝も昼も晩も、ただ魚を捕るだけ。これが人生のすべてだと思っているのか?」
漁師は言った。「考えたこともありませんでした。でも、あなたがその問いを投げかけてくれたおかげで分かります。人生にはもっと何かがあるはずです。」
イエスは言った。「もし私について来るなら、人を捕る方法を教えよう。魚を捕る代わりにね。」その男はイエスの目を見つめた……なんという深さ、なんという誠実さ、そしてなんという愛だろう。この人を疑うことはできない。彼を包む大いなる静けさに、否と言うこともできない。漁師は網を水に投げ捨て、イエスについていった。
町を出ようとしたとき、一人の男が走ってきて漁師に告げた。「おまえの父親が、長い間病気だったが、亡くなった。家に戻れ!」
漁師はイエスに言った。「父が亡くなったときに息子として果たすべき最後の儀式をするために、三日だけ時間をください。」
ここであなたに覚えておいてほしい言葉がある。イエスはその漁師にこう言ったのだ。「死んだ者たちに、彼らの死者を葬らせなさい。あなたは私について来なさい。」
これはどういう意味か? 「この町は死んだ人々で満ちている。彼らがあなたの父を葬るだろう。あなたは必要ない。さあ、私と来なさい。」ということだ。
あらゆる瞬間に、何かが死んでいっている。骨董品の収集家のようになってはいけない。死んだものは手放しなさい。あなたは生とともに進み、生とともに流れなさい。全存在をかけて、強烈に生きなさい。そうすれば、どんなジレンマにも、どんな問題にも直面することはなくなるだろう。
