22. 愚かな心
心には、理性には理解できない独自の理由があります。
心にはそれ自身の存在の次元があり、それは理性にとってはまったく暗く、見えないものです。心は理性よりも高く、そして深く、理性の及ぶところを超えています。だからそれは愚かに見えるのです。
愛はいつも愚かに見えます。なぜなら愛は功利的ではないからです。理性は功利的です。理性はあらゆるものを、何か別の目的のために利用します――それが「功利的である」という意味です。理性は目的志向で、終着点に向かって働きます。あらゆるものを手段に変えてしまうのです。しかし愛は手段にすることができません。そこに問題があります。
愛そのものが、すでに目的なのです。
愚か者の中にはいつも、かすかな智慧が宿っています。そして賢者は、しばしば愚か者のように振る舞います。
昔の時代、偉大な皇帝たちは皆、宮廷に必ず一人の愚か者を置いていました。賢者や助言者、大臣や宰相はたくさんいましたが、それでも必ず一人の愚か者がいたのです。なぜでしょうか。
それは、いわゆる賢者たちには理解できないことがあり、それを理解できるのは愚か者だけだからです。というのも、いわゆる賢者たちは、実はあまりにも賢く立ち回ろうとするあまり、その狡猾さや利口さによって心が閉じてしまっているからです。
愚か者は単純です。そしてしばしば必要とされました。というのも、いわゆる賢者たちは皇帝を恐れて、言うべきことを言わないことが多かったからです。愚か者は誰も恐れません。結果がどうなろうと、言うべきことを言うのです。
これが愚か者の行動の仕方です。結果がどうなるかを考えず、ただ単純に行動するのです。
利口な人は、まず結果を考え、それから行動します。思考が先にあり、行動が後に来ます。
しかし愚か者は行動します。思考が先に来ることはありません。
誰かが究極の真理に目覚めるとき、その人はあなたがいう賢者のようにはなりません。なり得ないのです。むしろ愚か者のように見えるかもしれませんが、決してあなたのいう賢者のようではありません。
聖フランシスは悟りを得たとき、自分のことを「神の愚か者」と呼んでいました。
教皇は賢い人でした。そして聖フランシスが彼に会いに行ったとき、教皇でさえこの男は気が狂ってしまったのではないかと思いました。
教皇は知的で、計算高く、利口でした。そうでなければ、どうして教皇になれたでしょう。教皇になるためには、多くの政治をくぐり抜けなければなりません。外交術が必要であり、他人を押しのけて地位を得るための競争的な攻撃性も必要です。他人をはしごのように利用し、登りきったら捨ててしまう――それは政治なのです。なぜなら教皇は政治的な指導者だからです。宗教は二の次、あるいはほとんど関係がありません。
本当に宗教的な人が、地位を得るために争い、攻撃的になることなどできるでしょうか。彼らはただの政治家なのです。
聖フランシスが教皇に会いに来たとき、教皇はこの人を愚か者だと思いました。
しかし、木々や鳥や魚たちは、まったく違う見方をしていました。
聖フランシスが川に行くと、魚たちは彼が来たことを祝うかのように跳ね上がりました。この現象を何千人もの人々が目撃しています。何百万もの魚が同時に跳ね上がり、川全体が魚の跳躍で満たされるほどでした。聖フランシスが来ると、魚たちは喜んだのです。
そして彼がどこへ行っても、鳥たちは彼について来ました。足に止まり、体に止まり、膝の上にさえ乗りました。彼らはこの「愚か者」を、教皇よりもよく理解していたのです。
枯れて死にかけていた木でさえ、聖フランシスが近づくと再び緑になり、花を咲かせました。
これらの木々はよく分かっていたのです。この愚か者はただの愚か者ではない――神の愚か者なのだと。
