20.自我
エゴは社会的な現象である――それは社会そのものであって、あなた自身ではない。しかしそれは、社会の中での役割や、社会のヒエラルキー(階層)の中での位置をあなたに与える。そしてもしあなたがそれに満足してしまえば、本当の自己を見つけるという大きな機会を逃してしまうだろう。
あらゆる種類の不幸がエゴを通して入り込んでくることに気づいたことがあるだろうか。エゴはあなたを至福にすることはできない。ただあなたを惨めにすることしかできない。エゴは地獄である。苦しんでいるときはいつでも、ただ観察し、分析してみなさい。そうすれば、どこかにエゴが原因として存在していることがわかるだろう。
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二人の仏教僧が寺へ戻る途中、小さな渡し場に差しかかった。そこは丘陵地帯で、流れはとても激しかった。若く美しい娘が一人、誰かが渡るのを手伝ってくれるのを待っていた。ひとりで川に入るのが怖かったのだ。
一人目の僧は、もちろん年長者だった……年長であるというだけで、彼は前を歩く――これもすべてエゴのゲームである。年長なら前を歩くべきで、若い僧は少し後ろを歩かなければならない。
年長の僧が最初に娘の前に来る。娘は言った。
「手を握って、渡るのを手伝っていただけませんか? 流れがとても強くて、もしかすると深いかもしれないので怖いのです。」
老人は目を閉じた――仏陀が僧たちに教えたのは、もし女性を見たら、特に美しい女性なら目を閉じなさい、ということだった。しかし私は不思議に思う。すでに彼女を見ているのに、そのあとで目を閉じるとは。でなければ、どうして彼女が女性で、しかも美しいと判断できるのか。すでに影響を受けているのに、そのあとで目を閉じるのだ!
彼は目を閉じ、そのまま娘に答えることなく川へ入っていった。
やがて二人目の、若い僧がやって来る。娘は怖がっていたが、他に方法はなかった――日が沈みかけており、まもなく夜になる。
彼女は若い僧に言った。
「どうか手を握っていただけませんか? 川は深そうで、流れも強くて……怖いのです。」
僧は言った。
「深いのは知っています。ただ手をつなぐだけでは無理でしょう。私の肩に乗ってください。向こう岸まで運びましょう。」
寺に着くと、年長の僧は若い僧に言った。
「お前は罪を犯した。私は報告するつもりだ。お前は女性に触れただけでなく、話までし、しかも肩に担いだのだ! お前は共同体から追放されるべきだ。僧侶にふさわしくない。」
若い僧はただ笑って言った。
「私は三マイルも前に彼女を下ろしましたよ。でもあなたは、まだ彼女を肩に担いでいるようですね。三マイルも歩いたのに、まだそれに囚われているのですか?」
さて、この年長の僧に何が起こっているのだろうか。娘は美しかった。彼は機会を逃したのだ。彼は怒り、嫉妬している。性的な思いに満ち、心は混乱している。一方、若い僧はまったく清らかだ。彼は娘を向こう岸まで運び、置いてきた。それで終わり、それ以上でも以下でもない。
欲望、エゴ、怒り、嫉妬、憎しみと戦ってはならない。あなたはそれらを殺すことも、押しつぶすことも、戦いで打ち負かすこともできない。あなたにできることは、ただそれらに気づくことだけだ。そして気づいた瞬間、それらは消えてしまう。光の中では、闇はただ消え去るだけなのだ。
