18. 瞑想


人生の小さなことを、くつろいだ気づきの中で行いなさい。

食事をしているときは、完全に食べなさい。

よく噛み、味わい、香りを感じなさい。

パンに触れて、その質感を感じなさい。

パンの香りをかぎ、その風味を感じなさい。

噛みしめ、それが自分の存在の中へ溶けていくのを感じなさい。

そして意識的であり続けなさい。

そうすれば、それは瞑想になる。

そうなると、瞑想は人生から切り離されたものではなくなる。

もし瞑想が人生から分離してしまっているなら、そこには何か間違いがある。

そのとき瞑想は、人生を否定するものになってしまう。

すると人は、修道院へ行こうとか、ヒマラヤの洞窟へ行こうとか考え始める。

人生が瞑想の邪魔をしているように感じるからだ。

しかし人生は瞑想の妨げではない。

人生そのものが、瞑想の機会なのだ。


ある弟子が師である一休のもとを訪ねてきた。

その弟子は、しばらく修行を続けていた。

その日は雨が降っていたので、彼は中へ入る前に、靴と傘を外に置いた。

そして挨拶を終えると、師が彼に尋ねた。

「お前は、靴のどちら側に傘を置いたのか?」

なんという質問だろう……。

普通、師がそんなくだらない質問をするとは思わない。

普通なら、人は神について尋ねられると思う。

クンダリーニが上昇したか、チャクラが開いたか、頭の中で光が見えるか――。

人はそういう壮大なこと、神秘的で秘教的なことについて語ることを期待する。

しかし一休は、とてもありふれた質問をした。

キリスト教の聖人なら、こんな質問はしないだろう。

ジャイナ教の僧も、ヒンドゥーのスワミも、こんな質問はしないだろう。

これは、本当に仏とともにあり、仏の中にあり、

そして自らも仏である人にしかできないことだ。

師はもう一度尋ねた。

「靴のどちら側に傘を置いたのだ?」

靴や傘が、いったい霊性と何の関係があるというのだろう?

もし同じ質問をあなたがされたなら、きっと腹を立てただろう。

「なんだその質問は?」と思うはずだ。

しかし、その中には非常に価値のある意味がある。

もし彼が神について、クンダリーニやチャクラについて尋ねていたなら、

それこそ無意味で、まったくくだらない話だっただろう。

しかし、この質問には意味がある。

弟子は答えられなかった。

覚えていなかったのだ。

誰がそんなことを気にするだろうか?

靴をどこに置いたか、傘を右に置いたか左に置いたかなど。

誰がそんなことに注意を払うだろう?

傘にそこまで意識を向ける人がいるだろうか?

靴のことをそこまで気にする人がいるだろうか?

しかし、それだけで十分だった。

弟子は拒まれた。

一休は言った。

「では、あと七年瞑想してきなさい。」

「七年ですって?」

弟子は言った。「こんな小さな失敗のために?」

一休は答えた。

「これは小さな失敗ではない。

失敗に大小はない。

ただ、お前はまだ瞑想的に生きていないということだ。

戻って、あと七年瞑想してきなさい。そしてまた来なさい。」

これが本質的なメッセージである。

注意深くありなさい。

すべてにおいて注意深くありなさい。

そして物事を区別してはいけない。

これは些細なこと、あれは霊的なこと、などと。

それはあなた次第なのだ。

注意を払い、気を配れば、すべてが霊的になる。

注意を払わなければ、すべてが霊的でなくなる。

霊性とは、あなたが世界に与えるものなのだ。

それはあなたから世界への贈り物である。

一休のような師が傘に触れるとき、

その傘はどんなものにも劣らないほど神聖なものになる。

瞑想のエネルギーは錬金術のようなものだ。

それは卑しい金属を金へと変える。


低いものを高いものへと変え続ける。


そして究極の頂点では、

すべてが神聖になる。


この世界そのものが楽園であり、

この身体そのものが仏なのだ。