2. 交わり(コミュニオン)

人はまるで孤島のように生きている。そして、あらゆる苦しみはそこから生まれている。何世紀にもわたって、人は存在から独立して生きようとしてきた――しかしそれは、物事の本質からして不可能である。人は独立することも、従属することもできない。存在とは相互依存の状態であり、すべてはすべてに依存している。そこには階層はなく、誰が上でも下でもない。存在とは交わりであり、永遠の愛の営みである。


しかし、人はより高く、優れ、特別でなければならないという考えが問題を生み出す。人は無でなければならない――全体の中へと溶け込まなければならないのだ。あらゆる障壁を手放したとき、交わりが起こり、その交わりこそが祝福である。全体とひとつになること、それがすべてだ。それこそが宗教性の核心である。


ヘラクレイトスは言う。「物事が人の望みどおりに起こることが、必ずしもよいとは限らない。予期せぬものを予期しないかぎり、真理を見いだすことはできない。なぜなら、それは見つけるのも得るのも困難だからだ。自然は隠れることを愛する。デルポイに神託を持つ主は、語りもせず、隠しもせず、ただしるしを与える。」


存在には言語がない。もし言語に頼るなら、存在とのコミュニケーションはありえない。存在は神秘であり、解釈することはできない。解釈すれば、見失う。存在は生きることはできても、考えることはできない。それは哲学というより詩に近い。しるしであり、扉である。示しはするが、何も語らない。心を通しては、存在に近づくことはできない。考えれば考えるほど、あなたは決してそこに到達できない――なぜなら、まさに思考こそが障壁だからだ。思考は私的な世界であり、あなたに属するものだ。そうしてあなたは自分自身の内に閉じこもり、封じ込められ、囚われてしまう。無思考であれば、もはやあなたはいない。閉ざされることもない。あなたは開き、多孔質となり、存在があなたに流れ込み、あなたもまた存在へと流れ込む。


聴くことを学びなさい――聴くとは、開かれ、傷つきやすく、受け入れる状態であるが、そこにはいかなる思考もない。思考は能動的な行為である。聴くことは受動性だ。あなたは谷のようになって受け取り、子宮のようになって受け取る。もし本当に聴くことができるなら、自然は語る――だがそれは言語ではない。自然は言葉を使わない。では何を使うのか。ヘラクレイトスは言う、自然は「しるし」を使うのだ。


そこに一輪の花がある――その花の中にあるしるしとは何か。それは何も語っていない――しかし本当に何も語っていないと言えるだろうか。多くを語っている。ただ言葉を使っていないだけだ――言葉なきメッセージである。


言葉なきものを聴くためには、あなた自身もまた言葉なき存在にならなければならない。同じものだけが同じものを聴くことができ、同じものだけが同じものと関わることができるのだから。


花のそばに座るとき、人であるな、花であれ。木のそばに座るとき、人であるな、木であれ。川で沐浴するとき、人であるな、川であれ。そうすれば、無数のしるしがあなたに与えられる。そしてそれはコミュニケーションではない――それはコミュニオン(交わり)である。自然は語る、幾千もの舌で語る。しかしそれは言語ではない。