
12世紀の初めには、アマルフィはすでに都市国家であり、ナポリ公国の最南端の砦となっていました。ビザンチン帝国とロタール王時代のランゴバルド王国が敵対する頃に、山と海に挟まれたアマルフィは戦略的な重要性を獲得しました。サレルノがアレキ2世の支配するベネヴェント公国に併合された後はその重要性が大きくなりました。フランク王国と戦っていたビザンチン帝国にナポリが従属していたことを示す史料として、785年にローマ教皇ハドリアヌス1世がシャルルマーニュに宛てた書簡があります。ここにベネヴェント公国がアマルフィ海岸(正確には城壁外の居住民)を攻撃し、攻撃を受けた彼らがナポリのステファン大司教2世に援助を求めたことが記されています。ナポリ公国およびビザンチン帝国の支配力は、アマルフィ住民が謳歌していた実質的な「周辺自治」を妨げるほどのものではなく、むしろ自治の力はますます強くなっていきました。アマルフィの自由と海軍基地の重要性を示す史料があります。812年、アマルフィのガレー船数隻がシラクサ総督(あるいは司令官)グレゴリオ救援に急行したというのです。彼はビザンチン領シチリアの長官で、カイルワーンを都とするアグラーブ朝のエミール、アブ・アル・アッバースと対戦中でした。ローマ教皇レオ2世の書簡によると、この救援はガエタの船団と協力して行われました。数年後、アマルフィの船員達がベネヴェント公国の王子の代理としてリパリ島に上陸し、そこから使徒バーソロミューの遺物を盗み出しました。
デシデリオがパヴィアで敗北しランゴバルド王国が滅んだ後も(ランゴバルド系の)ベネヴェント公国は生き続け、フランク王国の攻撃を跳ね返して領土を拡大していきました。アレキ2世の後を継いだシカルド侯のもとでベネヴェントはナポリを攻め、たびたび攻撃を仕掛けました。ところがシチリアのサラセン人に反撃され、その後シカルド侯は休戦協定を結んだのでした。これが836年のことで、この協定にアマルフィがソレントとともに登場します。さらにアマルフィの通商活動に言及し、特に「ランゴバルド奴隷の海上」輸出に従事していたことなどが明らかになっています。交通面ではこの頃既に(サレルノ湾)沿岸の交通は十分に発達しており、ナポリ公国やビザンチン帝国との良好な関係のお陰でシチリア島に至る南イタリアや、アラブ人が長く定住していた地中海岸アフリカまでもが人々の移動圏内になっていました。シカルド協定から3年も経たないうちに、アマルフィはシカルドの攻撃を受け陥落。ところがシカルドは宮殿の陰謀で暗殺されてしまいました。