シカルドによる征服の後、司教ピエトロによって聖女トロフィメナの遺物がミノーリ(アマルフィ近郊)から持ち出され、城壁や砦が取り壊され、ついには大勢の住民がサレルノに強制移住せられました。数世紀のあいだに彼らはランゴバルド人と融合し、公国の経済発展に貢献しました。

 836年7月4日に結ばれたナポリとベネヴェント間のシカルド協定では、リブルナ地方(パトリア湖~カンチェッロ~ノラ)の共有権など領土問題の解決に加えて、カンパニア地方に侵攻したアラブ人が勢力を拡大することを想定して、イタリア北西部の守備に関しても取り決めていました。その際ナポリは善意の中立を維持することになっていました。
 実際には、イスラム勢力拡大の第一波が地中海の北と西に押し寄せたのち、ほぼ一世紀にわたってその勢力は衰退していました。ビザンチン帝国がアッバース朝を打ち破っていたからです。やがて再開された侵略の第二波はその的をイタリア半島に絞っていました。
 ところがこの一世紀でチュニジアとカンパニア(イタリア中西部)間に通商関係が確立され、アマルフィはアラブ諸国と手広く貿易を行って大きな利益を得ていました。彼らには政治や宗教で敵対していることなど関係が無いのでした。
 地中海に生まれた新たな経済的均衡状態が帝国の沿岸住民の生命線になっているという現実を無視することはできず、ビザンチン帝国領内との通商関係が継続されました。また、イスラム諸国との通商関係も始まり、それは、イスラム海軍が危機を脱してリグーリアからカラブリアに至る沿岸地域に海賊まがいの侵略を再開して否応なく国交が断絶されるまで続きました。

 シカルドの悲劇的な死とベネヴェント公国の後継者争いの後、アマルフィは反乱を起こし、ランゴバルドの駐屯部隊を追い出しました。サレルノに強制移住された同郷人たちも故郷の解放のために戻って来て、反乱に参加したのでした。
 『サレルノ年代記』によると839年9月1日、貴族階級を構成する土地所有者たちがピエトロなる者を彼らの首長に選びました。公的にはナポリ公国を通じてビザンチン帝国の庇護の下にあり、完全かつ絶対的な独立ではありませんが、自由の原則である行政上の自治を意味する重要な出来事でした。
 法律上そうでないとしても実際には自由であった新国家は、直接首長を選出し自己責任で行動することができました。
首長の座は一年あるいは数年の任期でマリノ、マウロ、司教ピエトロ、プルチャリと引き継がれていきました。プルチャリはマリノの子ですが、この頃の首長はすでに「大長官」と史料に記されています。

 ロンゴバルド系ベネヴェント公国の王位をシカルドの親戚であるシコノルフォとラデルキが激しく争っていたとき、アマルフィはシコノルフォに援軍を送りました。ターラントの監獄から解放された彼は、盗まれた聖女トフィメナの遺物をミノーリに返還することでアマルフィの支援に謝意を表明しました。
 二人の兄弟間の闘いは、旧公国をベネヴェント公国とサレルノ公国に分割することで終結しました。サレルノ公国はのちにナポリ公セルジオ1世の弟アデマリオ公の支配するところとなり、サレルノ公国との国交はやがてアマルフィに軍事介入を招くのでした。