マグレブを拠点とするアラブ人の拡大政策が再開されました。彼らはバリとパレルモを占領したのち、ティレニア海中部の海岸に略奪者を上陸させました。その狙いは沿岸地域を攻略するための基地を設置することでした。

 アラブ人はサレルノ近郊にも上陸したので、ナポリ公セルジオは、親アラブの先代アンドレア公とは対照的に、迫り来るアラブの脅威に備えてカンパニアに同盟を設立し、それにガエタ、ソレント、アマルフィが参加することとなりました。もっともアマルフィはシチリア、スペイン、アフリカのアラブ商人との通商を続けたのですが。

 ローマ近郊への度重なる攻撃に続いてアラブ人がローマに侵入しようとしたとき、教皇レオーネ2世に催促され、カンパニア同盟は連合艦隊を動員し、長官チェザリオの指揮のもとオスティア近郊のテヴェレ河口で侵略者を攻撃しました。ナポリの船団にアマルフィとガエタの船も加わり、キリスト教徒側が勝利しました。
 849年春のオスティアの戦いは、後にバチカン宮殿に描かれたラファエロのフレスコ画で不滅のものとなりましたが、この画にはレオーネ2世の代わりに、アマルフィの大司教であったフィレンツェの教皇レオーネ10世が描かれています。
 約20年後、カイルワーンから遠征してきたアラブ軍に包囲されたサレルノへ、アマルフィ長官プルチャリが食料を送りました。その後もアマルフィは戦争への関与が続きました。たとえばナポリ公セルジオ2世に送った援軍はカプア包囲に参戦したのでした。