
ここに海港が造営され、取引所の基礎となりました。
ストラボン(古代ローマの地理学者)が1世紀に記したこの取引所ですが、のちにますます重要性を帯びることになりました。後背地の乏しいジェノヴァが農業経済から商業経済へ転換するためには古代地中海都市、特にマルセイユと有益な関係を確立する必要があったからです。これらの中核施設の周辺に、城壁に守られた本物の「城市」があったと考えられています。ポネンテ海岸には他にもサヴォ(サヴォナ)、アルビウム・インガウム、アルベンガ、アルビウム・インテメリウムなどのリグーリア人の町があり、ポー河流域の町と通商を行っていました。
ジェノヴァが最初の蛮族の侵略を受けた頃、ピサは想像を絶するほどの都市形態を達成していました。町は小さな漁村として誕生しましたが、その場所は干潟の中の高台でした。アルノ川の支流が幾つも走り、不定形の湿地、池、水路が伸びた砂洲でした。アルノ川の右岸に誰が定住したのかは、歴史的な情報が少なく断片的であることと、プリニウスからルティリオ・ナマツィアーノまでの古典作家の証言が不確かであることから正確なことは言えませんが、おそらくギリシャ人、エトルリア人、リグーリア地方のアプアーノ人が最初の住民だったのでしょう。しかし、伝説の中で過ぎ去った数世紀の間に村は成長を続け、やがて城市、ついにはローマ都市にまで成長しました。その間に彼らが乗る船も、外洋を航行するドロモーネ船やガレー船になったのでした。
沼地に囲まれ、北はマッサローザ丘陵、南はコッレサルヴェッティ丘陵に挟まれた新生ピサ。アマルフィやジェノバと同じだったのが海に進出せざるを得なかったこと、違ったのが立地条件で、そのため小さな造船所と港の設立が必要不可欠でした。古代ピサには2つの港があったと考えられています。ピサヌス港は市街地から離れた、チーニャ川とウッジョーネ川の間の鮮新世(地質時代の一つ。約500万年前から約258万年前までの期間)時代に出来た海岸線の入り江にあり、ピサルム港(またはアッレ・コンケ港)は市街地に近いサン・ロッソーレの森にありました。重要な港は紛れもなく湿地帯の入江の南端にあるもの(ピサヌス港)であり、ピサ市街地に向かう途中でその港の砦を目にした詩人ナマジアーノが「三塔」と呼んだほどでした。ローマの執政官カイウス・ベーボがここでサルジニア遠征を企てた、とティト・リヴィオ(15世紀の伝記作家)が言い、古くは第二次ポエニ戦争で執政官スキピオの船団がここに避難した、という伝承もあります。以上のことから、ピサがその「繁栄期」(ストラボン)にあっては、すでに独自の法律と制度を持つコミューンとしての地位にあり、その後、執政官ジュリオ・カエサルの下でカエサル従順区(より大きな市民権・行政権的保護を享受出来る)になっていたことが分かります。数世紀にわたり、ピサはローマ時代のトスカーナの枠組みの中にあったにもかかわらず、大きな自治権を享受していました。町の地図は一変し、もはや古代の城市に収まり切れず、城壁の内側に広がっていました。経済も徐々に農業・牧畜から商業へと移行し、ジェノヴァの場合と同様に、より一般的な都市化が進みました。その地理的位置のおかげで、ピサはローマ帝国の政治的激動の影響を免れることが出来ました。自治を高度化し、蛮族の侵略に有利に対抗できたのでした。