「ショーシャンクの空に」ーGet busy living or get busy...(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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(その1からの続き)

「ショーシャンクの空に」の日本語吹き替え版をみて、有名な台詞、”Get busy living or get busy dying.”の日本語音声「がんばって生きるか、がんばって死ぬか」及び日本語字幕「必死に生きるか、必死に死ぬか」の後段部分に疑問を感じてしまった私。

まずネィティヴの人たちが、この部分をどうとらえているかについてネットの情報を検索しました。

よく、英語が読めないのに英語から情報を得るって矛盾してない?といわれるのですが、いまは非英語話者向けにやさしく英文を英語で解説しているサイトがネット上にたくさんあります。

特に映画の場合、全世界に向けて公開され、配信されてきた経緯がありますから、「ここの英語はこういう意味合いだよ」と説明してくれるページはたくさんあります。

実際、前回ご紹介したこの部分の英文の中でわかりにくいのは、”shitty pipe dreams”(儚い夢)という表現のみです。

これは英語で説明を読むと””shitty pipe ”「阿片を吸う時のパイプ」の意味で、この言葉自体日本でいう明治時代位の古い表現で、今は滅多に使わないのだとか。

だから、現代のネィティヴにこんな英語を使っても、突然古風な言い方をしてどうしたんだになってしまいます。

あとは皆中学で習った単語ばかりですが、誰もが知っている”down”に「遠く離れた」や「ずっと向こう」なんて意味があるとは、日本国内でしか英語に触れていない人にはちょっと驚きです。

さいきんは、こうした英文サイトをネットの日本語翻訳機能も併用してよく比較すると、何となく読めてしまいます。

よく英語は訳さずに英語のまま感覚を受け容れろっていわれますが、それは英語だけの世界に生活できる人ならそうでしょうが、日本国内にいて、普段日本語を使って生活している人は、特に文章を読む場合は、ニュアンスの違いや表現の差に気付くためにも、比べてみることは大事だと私は思います。

私の周りには、ネィティヴとそん色ない英会話をする人は複数おりますが、彼らが英語に切り替えた途端に「バーバリアン」になってしまったように感じる感覚は、今でも抜けません。

しかし、それがまた「へぇ、この人にこんな一面があったんだ」と面白いのです。

だから英文を読むのに機械翻訳も含めて使い、本質として知りたいところだけを自分の頭で考えると、想像や推論の涵養にもなります。

自分が海外ひとり旅していた時も、全く分からない現地語だって興味をもてば何となく分かってくることがあります。

英会話教室が流行っていたせいで、よく外国語は会話だけだと思っている人がいますが、「読む」や「書く」だって立派な言葉の練習です。

そういう意味では、ネットやAIの発達によって、外国語、日本語に関わらず、読んだり書いたりすることがだんだん疎かになっているように思えて、さびしい限りです。

私は用が無いから使ったことはないけれど、自動翻訳機なんてどうなのでしょう。

自分だったら「なるほどね~そう訳すんだぁ」と感心することしきりで会話にならないような気がします。

さて、本題の”Get busy living or get busy dying.”ですが、ほかのサイトでも指摘されていて、私もずっと前にブログに書いた記憶があるのですが、”get busy”で「~にとりかかる」とか「~をはじめる」という意味があるそうです。

それなら、「結局選択肢は2つ、生きることにとりかかるか、死ぬことにとりかかるか」になります。

「がんばって生きるか、がんばって死ぬか」や「必死に生きるか、必死に死ぬか」でも間違いではないのでしょうが、今、この瞬間という時に焦点を合わせれば「ここから生きる方へ向かうか、それとも死へのカウントダウンをに入るかってゆくか」ということなのでしょう。

「死ぬことにとりかかる」と表現すると、なにか死ぬために積極的な行動に出るというニュアンスに聞こえますが、何もしないでただ無為に時を過ごすこともまた、”get busy dying”つまり、死に向かって歩をすすめるとなのだと今回気が付きました。

映画の流れでいえば、主人公が脱獄に向けて具体的な行動をおこすことが”Get busy living”で、このまま年をとって認知症になるまで刑務所にいることが” Get busy dying”になるのでしょう。

しかし、「すっかり施設馴れしてしまった」という収容者に、「がんばって」とか「必死に」という表現はやはり相応しくないとおもいます。

これは依存症の人たちのことを考えればわかりやすいのですが、ただ何もしないで嗜癖的な行動を止めているだけでは、つまり、アルコール依存症者ならただひたすら断酒しているだけでは、本当の意味でしらふにとどまっているとはいえないのです。

きちんと自分の今の感情や過去の行いに向き合い、自己の欠点や短所を受け容れたうえで、自分のなにが悪いのか、どこが上手く行かない原因なのかを明確にしたうえで、人間を超えた力と、同じ病を持つ先ゆく仲間にそれらを開示して取り去ってくださいと祈り、人間関係で傷つけた相手にはきちんと謝罪、埋め合わせをしてゆかないと真の意味での回復はおぼつきません。

いつか、何かの拍子に酒が注がれたグラスに手を伸ばすことになり、そうなったら何十年断酒していようと一気にもとに戻ります。

つまり、下りエスカレーターに乗って動きに逆らって上の階へと登るように、足を止めてしまったら、自動でどんどん下って行ってしまい、最後はエスカレーターの隅で仰向けにひっくり返る、という構図なのです。

ところがこのような必死に生きるための習慣が無かった人たちが依存症に陥るわけですから、こうしたプログラムを実践してゆくのは容易ではありません。

そのために自助グループには「スポンサー」と呼ばれる先ゆく仲間がいて、同じステップを皆それぞれに踏み、今日一日、この一瞬、お酒に手を伸ばそうとする選択を手放すという実践を積み重ねるのがプログラムの本質です。

これは原作にあたっても確認できます。

「ショーシャンクの空に」の原作は、スティーブン・キング(Stephen Edwin King)作の中編小説「刑務所のリタ・ヘイワース」(”Rita Hayworth and Shawshank Redemption”)です。

リタ・ヘイワースは1940年代後半のアメリカにおけるセックス・シンボルで、「男はギルダと寝て私と目覚める」という名言を残した女性です。

(ギルダとは彼女の当たり役で、上記の言葉は映画「ノッティングヒルの恋人」でも紹介されていました。)

「ショーシャンクの空に」において、主人公のアンドリュー・デュフレーンは、調達屋のレッドに彼女のポスターをリクエストしたわけですが、このポスターの裏で脱獄への行動を起こしていたのでした。

上記の言葉、”Get busy living or get busy dying.”には当然、何が”Get busy living”で何が” Get busy dying”なのか、原作の小説の中ではにも具体的な例が示されているはずです。

そこで当該箇所をざっと読んでみたのですが、ありましたよ、小説の中にも。

映画では、前回ご紹介した場面の前に、主人公が「自分の場合は運が悪かった」として「嵐」を引き合いに出して話しているところがそれです。

小説の中では主人公のアンディに作者はこんなことを言わしめています。

『災難がやって来たとき、つきつめたところ、この世界には二種類の人間しかいない。

二種類の人間のうちの片方は、ひたすら幸運を願うだけだ。

きっとハリケーンはコースを変えてくれる、と自分に言い聞かせる。

神さまがそんなことをお許しになるはずがない。

それに万が一の場合には、保険がかけてあると。

もう一種類の方は、ハリケーンが自分の家のまんまんなかを通過すると考える。

いくら気象庁がハリケーンは進路を変えたといっても、この男はハリケーンがきっとまた進路を戻し、自分の家が(通過)ゼロ地点になるにちがいない、と考える。

第二の種類の人間は、最悪の事態に備えている限り、幸運を願っても害はないと知っているんだ』

(スティーブン・キング著「刑務所のリタ・ヘイワース」朝倉久志訳 新潮文庫「ゴールデン・ボーイ」に収録から抜粋)

もうお分かりでしょう。

上述の喩え話の中で、前者の何の備えも根拠も無く、ただひたすら幸運を願う方が” Get busy dying”(死に向かいはじめる人)であり、後者の最悪の事態に備えながら、幸運を願う方が”Get busy living”(この瞬間を生きることにとりかかる人)ということになります。

事実、小説の中でも映画においても、この主人公は最悪の事態に備えて手を打っているのです。

だから映画の中でも見事に刑務所長を出し抜くことができました。

映画の中ではアンディが脱獄してから相当の時間が経ち、10年に一度の仮釈放委員会による面接の機会がやってきたレッドは、「もうどうでもいい」という態度をとりながら、後悔している旨はきちんと述べて、仮釈放に漕ぎつけます。

そして40年ぶりの娑婆に出るわけですが、当然に世間の目は冷たく、生きてゆく自信を失いかけます。

前に同じように仮釈放されたのち、自死を遂げた仲間のことや、もう一度犯罪を犯して刑務所に戻ろうかという思いが頭を過ります。

そんな時に、例の言葉を思い出すのです。

”Get busy living or get busy dying.  That's goddamn right”

「必死に生きるか、必死に死ぬか。俺は生きるぞ。」

これ、後半を直訳すると、「まったくもってその通りだ」としか言っていないのです。

でも、上述のように”get busy”の意味を加味して訳せば、次のような解釈が成り立つと思うのです。

「いま、この瞬間から生きることにとりかかるか、それとも死へ向かって坂を転がり落ちてゆくか、2つにひとつしかない。まったくその通りだ」

人生は選択の連続だといいますが、「生きることにとりかかる」とは一回こっきりの選択ではなく、毎日、その時々、瞬間瞬間に連続する選択肢のことを指すのだと思います。

だとすれば、今この瞬間にも死へ向かう選択肢も口を開けているのでしょう。

今この瞬間、怒りに任せて暴飲暴食に走るのか、それとも自分の感情に気付くために、マインドフル(=いま、ここに集中するために、リラックスして自然のリズムにまかせる)な呼吸法や瞑想、生活を心掛けるのか。

今この瞬間、テレビのスイッチをいれて脳の働きを弛緩させた状態でボーッとテレビを観るのか、祈って本を開き、なかに書いてあることを自分のこととして嚙みしめるように読み進めて行くのか。

目の前にある酒瓶に手を伸ばすのか、その手を引っ込めて玄関を出て、外を散歩しながら内心で祈り、黙想するのか。

こうしたその時その時の何気ない、誰にでもありふれている選択の積み重ねが、同じ人間を、生と死というまったく逆の境地に向かわせるのだと思います。

私はそう思ってから、ブロンプトンに乗っている時、一部の区間で自然に息を吐いて吸ってを意識しながら、ゆったりと自転車を漕ぐ時間を設けるようになりました。

通勤など全区間でそうした走りをしてしまうと運動になりませんから、走りはじめと最後の区間で、意識をその瞬間、自転車を漕いでいる自己に集中するようにして、ゆったりと走り、ときには自転車から降りて立ち止まり、道路わきでひとり黙想をするようになりました。

こういう場合、超早朝出勤は便利です。

誰もいないから、道路わきで十字を切ったり合掌したりしても、誰にも見つかりません。

そうして、危ないなと思い、怒りが湧いたとき、漠然と先行きへの不安が頭をもたげたとき、自己の嗜癖に向かいそうになった時など、それらを抑圧したり、そこから逃避したりしようとするのではなく、ときにはそういう感情の渦に巻き込まれるのもまた私の人生であると認めたうえで、そうした自己の負の部分を抱きしめて、ケアするようになりました。

このケアの手段として、聖書を読む習慣や、長年通った自助グループのステップや、お寺で学んだ瞑想はたいそう役に立っています。

実践すると、自分のなかにある怒りや恐れ、不安といったものがスーッと和らいでくるような気持になり、こちらも落ち着いた気持ちになってはじめて、そういつも自己の感情に振り回されることなく、それでも自分のこととして受け容れ、自分のなかの負の側面を自身で癒そうと行動を起こすようになりました。

と同時に、今も自分の感情にがんじがらめにされている人が気の毒になってきました。

「まだ苦しんでいる人たちにメッセージを運ぶ」というあの言葉を胸に、今回の文章を閉じようと思います。

長文を読んでくださり、ありがとうございました。