1月の松の内が明けてまもなく、友だちと秋に行った三峯神社に再び行きました。
昔はこの時期の秩父は積雪があり、たとえ日中晴れていても、融雪の水が夜間に放射冷却で凍り、早朝の日影はアイスバーンになったものです。
だから、1980年代の頃はオートバイで冬の秩父には容易に近づけませんでした。
いまは積雪があったとしても根雪になることは珍しいので、晴天が続いてさえいれば4WD+スタッドレスでなくても、マイカーでゆくことは可能です。
私にとって三峯神社は、小学校の卒業旅行で無謀にも早朝に雲取山を目指し、霧藻が峰であまりの積雪に先へ進めなくなり、戻ってきた場所ですから、真冬に行くこと自体、否が応でもその時のことを思い出します。
今考えれば、かんじきや軽アイゼンをはじめ、衣類も本格的な冬山装備が無ければ、霧藻が峰まででも危なかったかもしれません。
もちろん、真っ暗なうちに始発電車に乗り、南武線、武蔵野線、西武池袋線、秩父鉄道、バス、索道を乗り継いでこの神社に到達するだけでも、小学生にとっては冒険でした。
今回はかつてオートバイで走っていた下道ルートをなぞり、青梅から小沢峠、名栗、山伏峠を越えて秩父に入り、そこから三峯神社を目指しました。
正月明けだというのに、名栗や山伏峠は緑があって、三峯口から先は冬枯れの山になったものの、三峯神社に到達する直前に、ちらりほらりと日陰の路肩に残雪をみるていどで、却ってもっと春が近づいて3月になった方が、雪が降る確率は多くなるのかと思ったほどです。
それにさすがに真冬とあって、秋の紅葉の時期よりは車もずっと少なく、8時半に到着したときは余裕で駐車場に入れることができました。
トイレを済ませて参道を登ってゆくと、参道を並行するようにちょろちょろと走っている生き物がおります。
よくみると、リスでした。
朝ご飯を食べに行くのか、複数のリスが神社の方向に向かって走ってゆきます。
鎌倉の鶴岡八幡宮にいるようなペットが野生化したタイワンリスではなく、ここのリスは在来種のようでした。
それにしても、人慣れしているのか相手にしないのか、人間がそばを歩いていてもあまり警戒心をもっていません。
その後正月の余韻が残る本殿にお参りしました。
お参りした後、友だちにつきあってもらって、かつての三峯ロープウエィの山頂駅があった場所まで歩いてみました。
自分の記憶だと、三峯神社から山頂駅までの間にも店が並び、わりと賑やかだった記憶があるのですが、2007年の暮れに廃止されてからもう15年以上経っているので、当時の面影はほとんど残っていません。
それに、神社から駅跡まで片道800mもあり、こんなに遠かったかなという印象でした。
かつて駅があった場所は広場になっていて、脇にある案内板とトイレ(といっても使用不可)だけが、当時を偲ぶ遺構になっていました。
家に帰ってかつての山頂駅の写真をみてみると、かなり立派な鉄筋の駅舎が隣接しており、ここで雪で凍ってしまった靴下や靴をストーブに当てて溶かして乾かした思い出が少し蘇りました。
ふとみると、上空を猛禽類とおぼしき鳥が飛んでいます。
ちょうど逆光になって焦点をあわせにくいのですが、トンビのように円を描くのではなく、わりと直線的に飛んでいます。
あれは鷹か、もう少し小さな猛禽類だよねと言っていたら、瞬きした間位に急降下して、山の斜面の林間に消えてしまいました。
しかし、これで順番は違うけれど、なすび、富士山、鷹と三拍子そろったことになります。
こいつは新春から縁起がいいかもと友だちと話しておりました。
その後神社方面にもどって、日本武尊像や奥の院遥拝所を経由して、鳥居そばの食堂で食事をしました。
みると階下には雌のシカが来てキャベツを食べています。
ここはのんびりしているなと思いながら、食事後に駐車場の方へ戻ってゆくと、道端に立派な角を生やした推すのシカが佇んでいます。
最初は食堂下のシカのように人間に手なずけられていて、柵につながれているのかと思いました。
それほど車道に近い場所にいたのです。
しかし、意を決したように後ろ足で蹴ると、軽々と柵を飛び越えて駐車場方面におりて行ってしまいました。
あまりにも仕草が堂々としていたので、今日はリス、鷹、鹿と、様々な野生動物を見る日だねと、友だちと笑っていました。
帰りに長瀞の宝登山下に立ち寄り、季節外れのかき氷を堪能しました。
そして、関越自動車道から圏央道経由で帰ったのですが、中央道迄ゆくと混雑しているということで、青梅インターで降りて、国道16号線を八王子方面にショートカットすることにしました。
ところが、米軍の横田基地脇にさしかかったころに、夕方の空に雪が舞い始めたので、昔からあるピザが有名なイタリアンレストランに入って夕食を食べました。
すると、一時は大粒の雪が激しく降って、止めた車の屋根や、植え込みの低木を真っ白にしてしまいました。
私は聖書の「たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)のようでも、雪のように白くなることができる」(イザヤ書1.18)の言葉と讃美歌とを思い出していました。
『イェスよ、心に宿りて 我を宮となし給え、
汚れに染みしこの身を 雪より白くし給え。 』
この年になって、自分が様々な罪を犯してきたと自覚しているので、10代のころ、あまり深く考えずに歌っていたこの讃美歌が、今になって「そうあってほしいものだ」と胸に迫ってきます。
人間は予め罪を避けることが不可能な罪もあると思うのです。
そんなの誰にでもあることさ、からはじまってどんどんエスカレートしてしまい、身を滅ぼしてしまうような罪もその辺にごろごろと転がっています。
でも、今の私は「罪を犯さなくて良かった」とか、「わたしのは罪の内には入らない」などという人間にならずに良かったと思っています。
そんなことを言う人間は、かならず自分よりも弱い立場の人間に思いやりを持てなり、偽善者を演じながら陰湿な生き方が張り付くと思いますから。
私は学生時代、この友だちと二人で旅をしたかった記憶をたぐり寄せながら、「まるで二人で雪国に来ているみたいだね」と笑い合いました。
実際に、次々と夜空から舞い降りてくる雪をみていると、そのままタイムスリップしてしまうような気持になります。
去年に再会して以来、わたしはこの友だちと居ると、本当に不思議なことが続くと思います。
ひとによっては、偶然をこじつけているだけと思われるかもしれませんが、今までこれほど動物を間近で見たことはありませんし、雪が降ったらどうしようといいながら、最後にほんの僅かでもこうして二人で出かけた際に、雪景色をみせてくれるという自然の粋な演出に、なんだか感謝せずにはいられないのでした。