「ダメ!絶対」や厳罰化では、お酒を飲む人も飲酒運転も減らないのに | 旅はブロンプトンをつれて

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(本文と写真は関係ありません)

ある朝、ニュースを読んでいると、飲酒運転によって一時的に意識不明の重体に陥った少年の回復についての話がでていました。
識者のコメントとして、「飲酒運転を繰り返す方は、生きるための危機管理能力が欠如しているのではないでしょうか」とありましたが、アルコール依存症の知識が無いと、こういう考えに陥ります。
人間はロボットではありません。
危機管理能力なるものが生来に皆に備わっていて、そしてそれがどのような条件でも瑕疵無く発揮されるのであれば、およそ事故や事件などヒューマンエラーは起こりません。
一方で、未成年が飲酒喫煙してオリンピック代表から外されたというニュースに、「10代は失敗して学ぶのだから、取り返しのつかない重い処分は違う気がする」とか「立ち直り不可能なほどの罰を与えないのが大人の良識」など寛大な処分を求める声が上がるいっぽうで、「これがゆるされるなら、飲酒喫煙などの制限を守ってきた人たちに対して不合理」という反論が出ていました。
私は、どの意見も処分や処罰ばかりを問題にして、飲酒運転や、未成年なのに飲酒喫煙をしていた当人の内面に入ってゆかないところが浅薄だと、こういうニュースに接するたびに感じます。
問題は、法律や規則を破った人にどう落とし前をつけるか、ではなくて、どうしたら飲酒という習慣を断ち切れるかなのですから。

アルコールを飲むということについて、たまたまお酒が身体的、或いは心情的に合わなくて、全く飲まないひとがいて、次に冠婚葬祭やイベントなど、何か人から勧められる機会にだけ飲む人がいて、そして仕事上、或いは人付き合いのために飲む人がいて、最後に飲むことそのものが目的の人がいるとしたら、この最後の群れの中の一部に、「やめたくてもやめられないひとたち」がいて、その人たちの中で特に、症状が他人にも分かる位出ている人のことを、アルコール依存症というのだと、一般の人は思っていることでしょう。
しかし、実際にはアルコールを身体的に受け付けないアルコールアレルギーの人を除いて、みなすぐにでも依存症に陥る予備軍か、依存症であることを否認して、たまたまそれで通ってしまっているアルコール依存症者のどちらかです。
自分もそれほどお酒を飲みたいと思う方ではありませんし、過去にお酒に溺れた経験はないものの、飲酒をまったく受け付けないほど嫌いではないので、いつでも飲酒が常態化しかねない予備軍だと思うから、15年以上一滴も飲まない期間を設けてきたのです。

おそらく、飲酒運転で検挙されるようなひとは、或いは未成年なのに禁止されている飲酒や喫煙が発覚するということは、それらが常習化しているというのは本当でしょう。
今回事故を起こしたから、たまたま露呈したから問題になっただけで、最初は隠れて、つまり露呈しない場所や機会において習慣化していて、やがてそれがどんどん大胆になって、事故に至るまで、或いは他人にみつかるまで発展してしまったということには違いないでしょうから。
依存症者のなかには、しらふと酩酊が逆転しているので、どこぞの漫画に出てくるキャラクターのように、「飲酒しないとシャキッとしないから運転できない」なんて言う人がいて当たり前の世界ですから。
でも逆に、依存症の人の中は消毒用アルコールを飲んで病院に担ぎ込まれるようなひとがいるから、「自分はそこまでひどくない、ましてや依存症なんて関係ないと否認する人が多いのです。
自分が「節度のある酒飲み」だと思っているアルコホーリック(アルコール依存症者)は大変多いのです。

それに、彼らは様々な形で飲酒をすることの言い訳をします。
付き合いだからといって「1杯だけ」からはじまって、杯を重ねるという経験は飲酒したことのある人なら誰にでもあるでしょう。
車で来ているからといって、利き酒で済ませても、それが感知器にかけても数値が基準以下とはいえ、いくばくかのアルコールは口に入ります。
車のグローブボックスにウオッカやテキーラを忍ばせて、それを誰もいないときに口に含んで車内に吹きつけることで、コロナ予防のアルコール消毒をする運転手さんが居たら、皆不謹慎だというでしょう。
でも、そうした傍目には滑稽でしかない言い訳をしてまで飲む人が居るのは事実です。
よく性犯罪は再犯率(13.9%)が高いといいますが、飲酒運転の再犯率は自己申告や事故を起こした人のみを対象にしている数値ばかりで、日本全体では公式な再犯率すら明らかにされていないものの、東京と神奈川の合計で12.3%(アンケートによるもの)、沖縄県では17.8%といいますから、推して知るべしでしょう。

さて、本人もやめたいと思っている飲酒がやめられない状態というのはどういうことなのでしょう。
飲酒欲求がおさまらないというのは、自分の嗜癖に考え直せば分かりやすいのですが、おそらくは内心の孤独が大きく関与していると思います。
昭和の歌に、「酒と涙と男と女」という歌がありますが、あの歌詞がその孤独をよくあらわしていると思うのです。
「忘れてしまいたいことや、どうしようもない寂しさに、つつまれたときに男は、酒を飲むのでしょう」
あの歌は、女性は「涙を流す」にして、女の方が偉い、男はずるいとしていますが、男女関係なく飲んで、或いは泣いて、はてまた泣きながら飲んで、或いは飲みもせず泣きもせず、別の方法で対処する人がいるだけです。
ただ、酒を飲むとなると「運転はダメ」「未成年はダメ」という制限が法律によってつくということでしょう。
そして、酒を飲んで運転し、事故を起こした人(未成年で飲酒・喫煙した人)、こうした人たちに処分や重い処罰を与えることが、当人にとって以降の飲酒を抑制することにつながるのでしょうか。
一旦はショックで止まるかもしれませんが、長い目で見ればもっと忘れてしまいたいことが増えて、より深い寂しさにつつまれてしまうことになるのではないでしょうか。

そもそも、その手のお仕事をしている人はともかく、何の関係も無い、ただニュースに接しただけの人々に、彼らを裁く資格などありません。
それ以前に、自分のことを振り返ったら、とてもそうした人たちのことを批難・批判している場合ではないと思うのです。
自分は未成年の時に、一滴も酒を飲まなかった、喫煙もしなかったといったら、嘘になります。
飲酒運転も然りです。
どうしても断り切れずに、湯飲み半杯分だけ飲んで車を運転し、検問に引っかかったことがありますが、上述のように検知器にひっかからなかっただけで、飲酒運転したことには違いありません。
前の晩日付跨ぎ近くまで飲んで、翌朝8時から車を運転したこともあります。
飲酒を再開してからも、「駅から自転車(7~8分の距離)だけなのだから、一杯だけなら大丈夫だろう」という考えが頭を過ったことがあります。
アルコール依存症の怖さを知っていたから、ブロンプトンを連れてきている時は、断るか、送っていただいていて自転車に乗らずに済んでいますが、自転車に乗ったら原付、原付で大丈夫なら車と、エスカレートする自分が居ることを理解しているから抑制できているのです。

私はこういうニュースに接したとき、どうして関係のない他人が寛大な処分を、或いは反対の厳罰を求めたり、もう二度と車を運転するなとか、競技に顔を出すんじゃないとか言えたりするのか、不思議でならないのです。
識者を気取っていますが、その方面に全く知識が無いことをさらけ出しているにもかかわらず、ただ学者だからとか、元政治家だからとか、元警察官だからといって、個別の事案についても情報が不足しているはずなのに、その人個人をあれこれいう、これ、その人の思い上がり以外の何物でもないのではないでしょうか。
自分の経験則からいえば、依存症はどんな種類の依存症であっても、適切な治療と、息の長い回復の道をたどれば、かならず寛解に至ると今は信じています。
なぜなら、その人の中に「依存症になる以前の自分」がかならず埋もれているからです。
アルコール依存症に喩えれば、たとえ現在酒無しではやってゆけない人生になってしまっているとしても、過去のどこかに、かならず「酒無しでも生きていた自分」がいて、当人がそのことを記憶の片隅にとどめているはずだからです。
いくら筋金入りの酒飲みでも、酒瓶を抱えて産まれてきた人などいないでしょう。

誰にだって、最初にお酒を口にした時(喫煙した時)に、大人はなぜこんな苦くて不味いものを飲んで(喫して)愉しんでいるのだろうと疑問に感じたことがあるでしょう。

そして、その記憶を呼び覚ますために必要なのは、その人自身に飲酒などの自己破壊的、自己懲罰的な行動をやめてもらい、しらふになった頭で過去の自分を思い出し、自身を尊重する術を身につけてもらうことであって、ペナルティや重罰を与えたり、孤立を深める方向にもっていったりすることでは断じてないと考えています。
一部の福祉、教育関係者のなかには、そのことを知識として知ったうえで、個人的な八つ当たりから、あるいは自分もまた依存症者であることを世間から隠ぺいするために、他人のことをとやかく言い、回復に向かおうとするその人の邪魔をする人たちがおります。
私はこのブログで何度も書いていますが、どんな職業について、どれほどの信望をあつめていようと、そんなことを陰に日なたにして何ら自省することのない人間は、人として最悪だと思っています。
そしてそのような人間たちがどのような末路をたどるかについても、この目で見て来たつもりです。
人は自分に対してしか教育できないというのは、そういうことだと思います。

自分を教育しようとはせず、他人を教育した(懲戒した)としていい気分になっている人間は、「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜか自分の目の中の丸太に気付かない」気の毒な人たちです。

だから最期は光を失い、失明せざるを得ないのでしょう。
これをお読みになっている皆さんには、他人のことに構っている暇があるなら、ぜひ自分のなかにある闇とか欲望といったものに目を向けて、間違っても他人が善く生きようとしていることに横槍をいれたり、邪魔をしたりする人間にだけはなってほしくありません。
それもまた、一種の、たとえば「他人を操作、支配したい」、「それで気分良くなりたい、自己の嫉妬や怒りを鎮めたい(実際には鎮まりません。益々怒りと疑念に満ちた、気持ちの悪い人間になるだけです)」という欲望に塗れた依存症だと思いますから。