旧甲州街道にブロンプトンをつれて 21.犬目宿(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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旧甲州街道の旅は四方津駅の北西3.5㎞、談合坂サービスエリア(上り線=談合坂スマートIC)から西に700m、山梨県道30号大月上野原線の富士急バス犬目・太田上線安達野バス停(住所でいうと山梨県上野原市犬目)からはじめます。
尾張家殿様常宿跡があった蛇木新田の集落を抜けて坂を下り、県道に出たら右折するわけですが、交差点正面の坂を下ってゆくと、談合坂スマートIC前、犬目小学校跡、大野貯水池を抜けて、四方津駅へと至ります。
これから通り抜ける犬目宿は、直線距離では最寄り駅は中央線の梁川(やながわ)駅が最短ですが、あいにく道が無く、事実上の最寄り駅は四方津(しおつ)駅になります。
四方津駅には、JR東日本が開発したコモアしおつという住宅街が山の上にあり、駅との標高差が105mもあるため、駅舎の北側に巨大な円柱状の屋根に覆われた山の上と下を往き来するためのエスカレーターがあることで有名です。
しかし、この住宅街は駅とは逆方向の山の上側にはゴルフ場を背負っており、迂回して100m以上上にある住宅街と国道や県道を結ぶ取りつき道路が2本あるほかは、ほかのどの地区ともつながっておりません。
すなわち、山の上を削ってつくった周囲とは隔てられている独立した住宅街で、ゆえに「天空のニュータウン」とか「山梨のマチュピチュ」などと呼ばれています。

(コモア四方津へのエスカレーター)
上野原市によると、コモアしおつは捕獲的高い人口密度を有してはいるものの、住民の高齢化がすすみ、世代交代はうまくいっていないようです。
そりゃそうでしょう。
周囲と隔絶しているということは、そのニュータウンだけで生活が完結しているということであり、もともと住んでいる人たちとは別個の、孤立した新住民ということになってしまいます。
それでは、よほどの個人的な意味やうまみが無ければ、こんなに山の中の、しかも歴史のない住宅街に住もうと考える人は、年齢にかかわらず稀ではないでしょうか。
わたしも電車が駅に停車している際に、背後の山の斜面に嫌でも目立つエスカレーターをみて、「しめた、これに乗れば100mも高度が稼げて、旧甲州街道に出るのに登り坂を半分くらい登らずに済む」と思ったのですが、実際にはニュータウン背後の高所では一切道路が接続しておらず、結局駅側に下らねばならないので、エスカレーターは旅人にとって、何の役にも立たないのでした。
もっとも住民のために作られた施設ですから当たり前といえば当たり前なのですが、このように周囲の環境とのつながりを断ってしまっているニュータウンというものは、地域に溶け込めない分、年月が過ぎて世代が交代すると形骸化しそうです。
地域住民以外の住宅街通り抜けを嫌ったのかもしれませんが、それと引き換えにここに住む意味のひとつを失っているのですから、「マチュピチュ」の称号も気の毒です。

(「山」の字に見える鶴島御前山)
なお、四方津駅のホームから東京寄りの景色を眺めると、向こうに山が3つ行儀よく並んでいて、真ん中の山が少し高く、両脇の山が同じくらいの標高で真ん中のピークよりもやや低く見えるために、漢字の「山」の字そっくりに見えます。
中央線の車掌さんで山岳会の会員だった方が書いた本(「車窓の山旅 中央線から見える山」山村正光著 実業之日本社刊)によると、真ん中の山は(鶴島)御前山(標高484.1m)というのだそうです。
向って左側のピークは栃穴御殿(「御殿」とはこの地域で山のコブを指す)という名前がついているようですが、右側のピークは無名峰のようです。
御前山に登った人のレポートによると、山の南斜面に(コモアしおつの背後に控えるゴルフ場とは別個の)ゴルフ場が広がり、低山なので登頂は簡単だとタカをくくっていたら、急登に急降下、ナイフリッジのような痩せ尾根にクサリ場まであって、けっこうハードな登山になってしまったのだそうです。
山は低いからといってなめてかかると痛い目に遭います。
鎌倉アルプスだって、両手両足を使って登る箇所もあるし、場所によっては転落したら危険です。
登山の素人が考えても、見てくれが漢字の「山」という字にそっくりの山に登ろうとしたら、そうなるのではないかなと思ってしまいます。
私などは石川啄木ではありませんが、山に向かいて「ありがたきかな」と言っているだけで十分です。

(犬目宿への最後の登り)
話が脱線してしまいました。
安達野バス停から県道を登ります。
「こんな山の中に?」と驚くような金型設計加工の会社を右にみたあたりから、犬目宿への急登となります。
坂の頂上まで280mほどですが、鶴川宿からここまで、標高差で300m以上を登ってきて、先ほどは難所も越えてきたので、かなりへばっています。
坂の最後、掘割の中を抜けてもう旧宿場の家並みがみえた段階で、左側にこんもりとして塚のような丘があります。
これが犬目兵助(いぬめ ひょうすけ)の墓です。
彼は江戸後期に犬目宿で旅籠を経営していました。

(犬目兵助の墓への道)
甲斐の国は現在の山梨県中西部地方にあたる国中地方と、笹子峠の東に富士吉田から大月を経て上野原までの桂川沿いの郡内地方に分かれると説明しましたが、郡内地方はもともと山々と狭い谷間の土地ばかりで、耕作に適した場所が少なく、ゆえに戦国時代、武田氏配下の小山田氏の支配下では、とくに領民は積極的な保護育成を受けていました。
ところが、織田信長の甲州征伐によって武田氏とともに小山田氏も滅びると、甲斐は徳川家康の支配下となり、上野国総社(現在の前橋市)から転封されてきた秋元氏は3代72年にわたって村高の9割という過酷な重税を課したため、農民たちは請願をおこしたものの、17世紀中盤から後半にかけて、郡内では100人以上の百姓たちが打ち首になったといわれています。


江戸時代も後半に入ると、新田開発が進んで米の生産量が増大した国中地方と、山あいゆえに耕作量の増加は見込めず、ゆえに山仕事と農間余業(作間稼=「さくまかせぎ」ともいう。農閑期に行う手間賃稼ぎの内職や商売のこと)に頼る郡内地方の生活実態の分離は、さらに加速しました。
そして、天保年間になると、洪水や冷夏を伴う異常気象により天保の大飢饉が起こり、既に貨幣経済に組み込まれていた農民のなかでも、その恩恵にあずかれない郡内地方の人々は、高騰した米市場にて自らは潤いながら、他国へ廻米として販売するために米の買い占めを飢饉の中でも行っていた国中地方の豪商に恨みを募らせていました。
当時の農民は、草の根や木の実、木の皮を食用として、何とか命をつなぐ有様だったといいます。


そこで天保7年(1836年)、犬目兵助と、下和田村(現在の大月市七保町下和田)の武七(下和田村次左衛門)は、米価引き下げを強訴しようと一揆を計画し、その頭取となりました。
黒野田村(現在の大月市笹子町黒野田)の名主で村医者の泰順に綱領を起草してもらい、打ち壊しを予告のうえ、国中地方の熊野堂村(=中央本線春日居駅付近)で米の買い占めを行っていた豪商、奥右衛門をに対して、米の売り出しと米の借り受けを請願しようと、群衆を従えて郡内地方から笹子峠を越えて甲府盆地へと押し出しました。
ところが、国中地方に入ると当地の無宿人や博徒などがこれに加わって人数が数万名にまで膨れ上がったうえ、統率力がきかなくなって暴徒化し、甲府盆地一帯から南は鰍沢、西は信濃の国の境に近い白州迄打ち壊しと火付け、強盗をしてまわる、いわゆる天保騒動に発展してしまいました。
甲州は当時天領だったため、奉行所や代官所の役人では抑えきれず、幕府は駿河の沼津藩、信州の高島藩に要請して出兵してもらい、騒動の鎮圧につとめました。


その後、この一揆の首謀者として、騒動が変質すると早々に帰村していた兵助は追われる身となり、関東から北陸、中四国地方まで逃亡の旅を続けます。
(犬目宿の家族とは、一揆に先立って離縁していました)
もう一人の首謀者武七は自首して捕縛され、甲州街道の石和宿で磔と決定したものの、70歳という高齢が祟ってか、獄死しています。
また綱領を起草した泰順は1年ほど入牢の後、特赦されて生還しています。
兵助は40歳と若かったこともあって、22年も放浪した後、幕末の慶応年間には犬目に戻ったといいます。
この騒動によって、甲州とそれに隣接する武州多摩の農民の間に銃隊などの自衛集団が組織され、彼らの間で流行った農民剣術のうちのひとつが、のちに新選組がその道場にて組織される天然理心流でした。
(その2へつづく)