識字能力の低下は想像力の欠如につながる? | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(今回の写真はずいぶん前の春と…)

ある土曜日の午前11時前のこと、都内のファストフード店で食事をしようと思い立ちました。
わたしは休みの日も朝食がはやいので、昼食もお昼よりずっと前にお腹がすいてしまいます。
しかし、そのファストフード店は午前11時までは朝食を出しており、レギュラーのメニューよりは安価でたくさん食べられるので、そこそこ混雑しております。
わたしはそのあと自転車で走るためにも、ひとりでさっと食べたかったので、食べたらさっさと出るつもりでいました。
それに、ひとりでテーブル席を占拠するつもりも最初からありません。
これからお昼を控えてどんどん混雑してくるでしょうから。

(去年の春ごろに読んでいた本です)
カウンター席に空きがあるなと思ってよく見たら、空いている席にはことごとく荷物やコートが置かれています。
しかし、その持ち主は皆、食べながら、或いは食べ終わっていても、スマートホンを無言でいじり続けています。
荷物がない空席には、故障してしまったのか、注文用のタブレットがありません。
見かねた店員が、「テーブル席へどうぞ」といってくれたのですが、4人用の席を独り占めするほどデリカシーが無いわけではありません。

すると、カウンター席に座っている人のうち、唯一本を読んでいた人だけが、食事途中にもかかわらず、荷物をどけてくれました。
わたしは「ありがとうございます」といって着席したのですが、ほかの
スマートホンをいじりながら自分の隣の席に荷物や外套を置いている人は、食べ終わっているにもかかわらず、一心不乱にスマートホンを操作し続けています。
彼らは最初から最後まで、周囲に全く気を配っている様子はありませんでした。

今から10年ほど前のこと、都内のラーメン店で席の座り方を巡るトラブルから、暴行事件が起きて人が亡くなりました。
後から店に入った客が、自分の荷物を隣の席に置いて引き寄せたところ、その空席に足をかけて食事をしながら酒を飲んでいた先客がつんのめったことで、言い合いになり、先客が後から来た客を押し倒して複数回蹴りつけたところ、内臓を損傷した出血性ショック死で、亡くなってしまったという事件でした。
その際に加害者は、口と鼻から血を流して床に倒れている被害者を一度は様子見したものの、ほかの客から「動かさないほうがいい」といわれたこともあって、倒れている相手を尻目に飲食を続け、追加の注文を行い、やがて警察官が到着して「あなた、飯を食べている場合ではないだろう」と注意されても、「どうせ刑務所にゆくことになるから最後の晩餐だ」として最後まで食べていたといいます。

お酒に酔っていたということもあるのでしょうが、この事件の加害者はのちの裁判で、「被害者の人生を終わらせてしまったことに申し訳ございません」と謝罪し、「なんで手を出したか、悪いことだという認識はあるが、いまだに分からない」と振り返っていたといいます。

彼がそのころ普及率が50%を超えようとしていたスマートホンをいじっていたかどうかわかりませんが、テレビにしろ、インターネットにしろ、私たちのように画像や映像を観ることを中心に育った人間は、識字のみの世界で育った人間に比べて、共感性に乏しく、想像力が欠けているといわれています。

たしかに第三者目線でみていても、スマートホンを凝視している人は、他の人の動きをはじめ、周囲の人たちの反応が全くみえていないようです。

というか、自己の世界に没頭している感じです。

上述のファストフード店で、本を読んでいた人だけが荷物を空席からどけて、ほかのスマートホンに集中していた人は全く気が付いていないというのが象徴的にも思えました。

よくよく振り返ってみると、本を読んでいる人は、読書に集中しながらも時折本から目を離して周囲を伺ったり、天を仰いで空を凝視したり、ふと足元に落ちている葉っぱに目線を落としたりと、読んでいる内容にもよるのかもしれませんが、映像や画像を見ているひとよりは動きがあります。

実際に、自分が本を読むときも、活字だけに集中するのではなく、時々目線を本から外しては、考え事をしたり、内容について空想したり、自分の内言を働かせています。

しかし、テレビやインターネットで映像を視る時には、それに集中してしまい、大事なところを見落としたり、置いて行かれるのが嫌で、とても画面から目を離せるような精神状態にはなりません。

だから、カフェテリアやファミレスでも、画面を視聴している人と、本を読んでいる人の差は歴然としています。

ひとりで映画館に行くときと、図書館に行くときでは自分の心の中が全然違います。

そもそも、映画館は誰かと行くことができますが、図書館は他人と同行しても、中では基本ひとりです。

(そのおひとりさまを狙って、置き引きやすりが多発しているそうですから、利用される方は気を付けてください。

私も居眠りしている最中に、椅子にかけた外套の内ポケットから、財布を抜かれたことがあります)

ただ、今一つよくわからないのは、電子書籍で読むのと、紙の本を読むのとの違いです。

もっとこまかくいえば、電子書籍専用の端末で読むのと、パソコンなどで活字を読むのとでは違うのかなとも感じています。

後者はどうしても、枠外や広告に画像や動画が入ってきてしまいます。

このブログだって、写真が入っているのと入っていない場合、横書きと縦書きの場合、自分で記述しているか、他の人の文章をこぴーしているか(私はしていません)によって、ずいぶんと読む姿勢が変わってゆくと思われます。

本好きの私としては、実験してみたいところですが、ハンドライティングがワープロに変わった時と同様に、読むという行為が劇的に変化してしまったら嫌だなと思います。

なお、識字が苦手かどうか、時短なのかどうかわかりませんが、文字を目で追って読むというよりも、音声で聴いた方がよいという人もいます。

これは私も試してみたことがあります。

読書と違い、なにかほかのことをやりながらでも聴くことはできますから、大変便利です。

語学学習など、あるていど暗記が必要な学習の場合、繰り返し聴くことの大切さもふくめて、なかなかよいと思いました。

しかし、動作に集中している間はちゃんと聴くことはできず、文字通りの「聞き流し」になってしまうことや、聴くことに集中してしまうと、今度は動作が中断してしまうという経験もしました。

私が高齢かつ要領が悪いだけなのかもしれませんが、動作に集中すればするほど、聴いている内容を暗記することはできなかったように思います。

なお、聴く音声の種類ですが、AIの自動読み上げと、人間が録音として記憶媒体にふきこんだ声、そして目の前にいてもマイクやスピーカーなど、音響機器を通した声と、文字通りの肉声でも全然違うように感じます。

AIに関しては、最近テレビのニュースで機械による自動読み上げのコーナーがあることに気がつきました。

むかしに比べれば、かなり肉声に近づいてきているものの、自然な感じには程遠く、まさに人工音声の気持ち悪さを心の中で感じます。

私が使っている聖書アプリは、人間が読み上げた声ですが、とくに聖書などの場合、人工音声はあり得ないように思います。

その記憶媒体に録音された人間の声も、自分で自分の声をふきこんで聴いてみればわかる通り、全然違います。

そして最後の肉声ですが、感情がこもっているのがわかり、また息遣いが感じられるという点で、もっとも人間的ですし、自分がひとりで読書しているときに想像している声にもっとも近い(当たり前ですが)のでした。

やはり、子どもへの読み聞かせは人工音声や録音音声ではなく、肉声でなければだめだと思います。

そして、子どもの想像力や、そこから先への共感性をはぐくむためには、最初は紙芝居であっても、徐々に絵本、それも想像力を補う程度の挿絵(マンガはこの逆)が入ったものを選び、それがだんだん文字に置き換わっていって、最後は字だけの本を読みきかせ、やがて自分でも読むようになるというのが、初歩の読書教育としては最適ではないかと思われます。

それよりも、子どものころから画(像)や映像漬けにして、識字能力を育てないままに大人に育ってゆくことの恐ろしさをもっと考えるべきではないでしょうか。

私は絵本の空白部分は(読んでいる子どもが想像でそこを埋めるという点において)たいへん重要だと思っていますし、大人が読む活字だけの本も、天地や小口、のどの空白部分は大切だと思っています。

スマートホンの画面ではこの部分がないだけで、冒頭のような周囲の様子を全く感じないで、画面の中に没頭したまま自己を失ってゆくひとが増えているのではないでしょうか。

枠を意識するという事は、枠の外にも気を配るという点で、オープンになれます。

しかし、枠を気にせずに枠内に没頭してしまっては、枠の外のことはもはや意識外に飛んでしまったいることになります。

ファストフード店でスマホを凝視している人たちをみていて、IT社会は共感性に乏しく、個人の疎外感が増長する社会だと感じずにはいられませんでした。

便利になったけれども、その反面で喪失してしまったものについて考えるためにも、たまにはスマートホンを置いたまま(鞄にしまったまま)、ネットにつながらない一日を過ごしてみると、様々な気づきが与えられるのではないかと思った次第です。

そうだ、ブロンプトンに乗って自分の眼で風物をたしかめ、そして読書をしているときは、そうした一日になっていると、いまパソコンに向かいながら内省しているところです。