旧甲州街道にブロンプトンをつれて 20.野田尻宿 | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(大椚一里塚跡)

旧甲州街道の旅は、桂川と鶴川の支流仲間川に挟まれた尾根に取りついて、尾根上に出た大椚一里塚跡から、野田尻宿へと向かいます。

標高203.2mの鶴川宿と、標高354.2mの野田尻宿の標高差は151mで、大椚一里塚の標高は310.7mですから、3分の2以上高さを稼いだわけで、あとは楽勝かと思いきや、尾根道の登りはまだまだ続きます。

左にカーブしながら右に廿三夜塔(陰暦二十三日の夜に月待をした記念の塔)、続いて左へカーブしながらそのさきで左に石塔群や道標、右に道祖神と、ちいさな石塔や石仏をみながら800mほど進むと、左側に現れるのが吾妻神社です。

このあたりは昔は立場でした。

この境内に大きな椚の木があったことから、このあたり一帯を大椚と呼んだのですが、いまはその木も枯れてしまいました。

なお、吾妻神社にはトイレがありますが、我慢できるのならここを使わずに先へ進みましょう。

さらにのぼってゆくと吾妻神社から320mほどで、中央自動車道を右手に見下ろす地点に登り詰めます。

ここに昔は濁池と呼ばれる沼がありました。

別名を長峰の池ともいわれ、江戸時代は富士八湖のひとつに数えられていました。

富士五湖は山中湖、河口湖、精進湖、西湖、本栖湖ですよね。

これに富士吉田の明見湖(あすみこ)、市川大門の四尾連湖(しびれこ)、沼津の浮島沼を加えて八湖なのですが、最後の浮島沼に代えて、ここ長峰の池を数える説があります。

その名の通り水は濁っていたものの、旱魃にも涸れることはなく、地元民には重宝されたそうですが、高速道の建設でなくなってしまいました。

この沼がらみなのか、後述する長峰城址には、芭蕉の「古池や…」と、弟子の各務支考による、「あがりてはさがり明けては夕雲雀」の句碑があります。

その先旧甲州街道はまたもや中央自動車道の側道になります。

この側道というのは自転車で旧道を辿っている身としてはまことに腹立たしい限りで、一定の傾斜でのぼってゆく高速道路に対し、無駄にアップダウンを繰り返します。

大椚一里塚跡からここまでは、尾根の上をのぼってゆくという感じで、きつい登りと、平らな部分が交互に現れるため、がんばって登ってきたなという感覚がありました。

しかし、側道となると、急に下ったかと思えば、その先の直線に急な登り返しの急坂が立ちはだかっているという塩梅で、だったら自動車道の緊急車両通行帯のさらに外側、もちろん防音壁の外側でいいから、もう一車線一般道路として余分にスペースをとって欲しいという気になります。

いや、できたら旧道のそばに高規格道路など作ってほしくありません。

だって昔を偲べなくなるではありませんか。

旧東海道でも、蒲原宿の手前に短い区間ながら同じように東名高速道路の側道になっている箇所がありましたが、歩いている時は面白くはありませんでした。

(吾妻神社)

こちらの側道は、どうせ高速道路を建設した際についたブルドーザーやダンプカーの往き来した通路をそのまま道路にしたのでしょうけれど、防音壁の向こうを走る車の騒音はひどいし、土手や壁で周囲の風景は殺伐としてしまうし、自分の足で移動している人には良いことがこれっぽっちもありません。

しかも、下り線側の長い登坂車線のある区間だからなのか、山の中の空気が澄んでいる場所とは対照的に、やたらと排ガス臭いのです。

運転免許を保持している人が利用する道のすぐ側で、運転免許のない沿道の人たちが迷惑を蒙っているという認識は、マイカーで走ったり、高速バスに乗って移動したりする際に、肝に銘じておくべきだと思いました。

全国に高速道路網を伸ばして物流革命するのも大事ですが、そうした便利と引き換えに、地域の環境が悪化するとしたら、旅人としてそこを飛ばして先に進むわけには参りません。

車ばかり利用して高齢になって足腰が弱り、生活習慣病や認知症になるのは、ひょっとしたら便利な生活を享受してきた対価なのかもしれません。

側道に出てからひとつめの登り返し、380m先の左側にあるのが、長峰城址です。

ここは城というよりは山の砦で、戦国時代、武田氏の家臣で郡内地方を治めていた小山田氏配下で上野原の豪族、加藤氏が対北条の前線として砦を築きました。

上野原城主の加藤忠景(かとう ただかげ ?-1575)は、甲相同盟が成立すると、北条氏の求めに応じて、上杉謙信の関東侵攻に対抗すべく、八王子城に援軍を出していますし、武田氏の駿河侵攻によって同盟が破綻すると、今度は武田軍に従って小田原攻めや三増峠の戦いに参加しています。

一説によれば、彼は1575年に行われた長篠の戦で戦死したとも伝えられています。

たしかに、上野原は相模の国と甲斐の国の国境で、武田氏にとっては最前線だったのでしょう。

加藤忠景の居館でもあった上野原城は、牛倉神社の南西、鶴川を見下ろす崖の上にあったそうですが、国境の境川(といっても沢に近い)を堀に見立てれば、東方(関東方面)からの侵略者は容易に上野原台地の上に攻め上ることはできないはずです。

(濁池のあたり)

(長峰城址)

上野原城を本城とすれば、こちら長峰城は万が一上野原が占領された際の後詰(ごづめ)の城ということになり、鶴川の深い渓谷を深堀として橋を落とし、いま登ってきた坂道を、曲輪の一部に見立てれば、簡単に攻め上ることはできません。

それに、こうした谷間の城郭や集落をよその国の軍隊が占領しても、脱出して山間に逃げ込んだ守備兵や地元民は、今度は野戦ゲリラと化して、占領軍やそれに補給を行う輜重兵、いわゆる補給線を断ち切ろうと街道のあちこちで襲うようになるので、容易に鎮圧することはできず、結局長期にわたって占領を維持できないのではないでしょうか。

そういう意味では、甲府盆地と違い、ここ郡内地方は統治しにくい場所だったと思います。

そういえば本で武田信玄の有名な、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」ということばを引き合いに出して、あれは信玄が配下に対してとくに厚情の人物だったということではなく、そうでもしなければ痩せた土地で細々と生計をたてているあちこちの山間に散らばった豪族たちを、武田騎馬軍団として束ねることができなかったからだと本で読みました。

(新栗原橋。その向こうに見えるのは不老山)

長峰城址からさらに側道を西へ向かいます。

350mほど防音壁を右にみながら坂をのぼると、中央自動車道を跨ぐ新栗原橋があらわれますので、右折してこれを渡ります。

高速道路の上下線双方をわたるわけですが、大月方面への下り線は登坂車線も含めて4車線、かたや八王子方面への上り線は3車線と、かなり拡幅されています。

そのさらに向こうに、かつての高速道路だった上下2車線、計4車線の車が全く走らない状態で放置されています。

なんだか映画のセットのようで、カーチェイスや交通事故など再現ドラマの撮影に使われそうな雰囲気ですが、道をつけかえるのに、以前使われていた道をとめてその上につくるわけにゆかないので、こうして並行して新道をつくったのがよくわかります。

しかし、これもまた山の中の環境を大きく変えているわけで、いくら過疎の山間部とはいえ、人に見えないところで道路行政はやりたい放題のことをやっているのが分かります。

私は何度も中央道を往復しているのに、ここにこんな形で旧高速道路が残されているなんて、全く気が付きませんでした。

実はここから旧高速道路を580mほど上り方向にくだったさきに、中日本高速道路の研修施設があるのですが、何のための施設なのか、さっぱりわかりません。

おそらくは、使われなくなったこの道路で補修や保守の作業を訓練するための施設だと思われます。

(かつての中央道)

さて、新栗原橋を渡った旧甲州街道は左に折れ、すぐさきで突き当たるので右折して、高速道路を背にして坂道をくだってゆきます。

実はこの橋のあたりが、鶴川宿と野田尻宿の間でもっとも標高が高く、375mもあります。

鶴川宿からは標高差で170m以上あるのです。

さすが山の中。

家の近所の丘陵地帯の標高差はあってもせいぜい40m~50m程度ですが、規模が違います。

おかげで旧甲州街道は滅茶苦茶運動になります。

新栗原橋から440mほどで野田尻の集落に入ってまいります。

「尻」という地名には「底」という意味がありますから、野田の底ということなのでしょうか。

山の斜面に開けた平らな場所にみえますが、周囲を囲っている山からみたら、やはり「底」なのかもしれません。

むかしは「垈尻」(ぬたじり)とも表記されたそうです。

(野田尻宿本陣跡)

野田尻宿は、本陣脇本陣が各1、そのほかに旅籠9と、山あいの小さな宿場で、明治の大火で大半が焼けてしまいました。

道路の右側、駐在所の手前にたつ、明治天皇御小休所阯碑のある場所が本陣跡です。

集落に入ってすぐ、左に入る路地の先に中央道の防音壁がみえています。

ここを入って中央道をくぐり、向こう側へ大きくまわると、下り線の談合坂サービスエリアです。

野田尻宿には食事をする場所も、トイレもありませんから、そちらへまわって一般道路側の入り口を入ると施設が使えますが、談合坂SAの場合、下り線よりも上り線の方が充実しておりますので、どちらかといえばもう少し先へ進むことをお勧めします。

なお、SA内には高速バスの停留所がありますが、ここは降車専用です。

鶴川宿からの坂道を登りたくない方は、このバス停で降りれば、すぐ宿場です。

次回は、野田尻宿内にある駐在所前から旧甲州街道の旅を続けたいと思います。