最初から旧道歩きが順調だったわけではありません。 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

尺取り虫方式の旅というのを皆さんはご存じでしょうか。
最初は旧街道ウォーキングをしている人たちの間ではじまった言葉だと思います。
2004年に徳川家康が五街道を整備してから400年を記念して、とくに旧東海道において、踏破の旅がマスコミで紹介されたり、それにあわせたイベントが行われたりしました。
いにしえの旅を偲ぶのであれば、本来は東京の日本橋から京都の三条大橋まで歩き通すのが基本です。
お正月に駅伝を観られた方も多いと思いますが、日本発祥の駅伝競走の最初の競技は、東京奠都(てんと)50周年を記念して、京都の三条大橋から東京上野の不忍池まで508㎞を、関西・関東の2チームが昼夜を問わずに襷をつなぐというものでした。
駅伝競走の「駅」は傳馬制度(荷役馬を継ぎたてること)における宿駅、つまり宿場の駅機能を指していたのです。
そして、500㎞超の距離を「通しで襷をつなぐ」というところに、競技の醍醐味をもってきたのでした。


一方、競争ではなく旅はどうでしょう。
その昔、人間は旅をしようと思えば、一部の高貴な人やお金持ちを除いて、基本は自分の足で歩くしかありませんでした。
しかし、鉄道やバス、航空機など、様々な公共交通機関を安価に利用できる現代は、よほどの決意がないと、東京から京都まで歩き通すなどということはできません。
それに、現代人は仕事がありますから、そんなに長い休みを取っていたら、日常の方が無くなってしまうかもしれません。
そこで、旧東海道を徒歩で行く人たちの間に、一日目は日本橋から戸塚まであるき、そしてその日は家へ帰る。
また別の休みのときに、今度は戸塚から小田原まで歩いてみるというように、休みの日ごとに区間を区切って歩くということをする人たちが、自分たちの旅の形式を、歩き通す人たちに対することばとして、「尺取り虫方式」と名付けたこの旅形式は、旧街道旅を気軽に始めるのに、どれほど役に立ったかしれません。

たしかに、「京都まで歩くぞ」と意気込んで日本橋に立つのと、「行けるところまで行ければいいさ」と思って第一歩を踏み出すのでは、心構えからして全く違います。
2007年の春先の日曜日、時刻は9時過ぎだったと記憶しています。
もと旅行会社社員だった私は、そのようにある意味適当な気持ちで日本橋からあるきはじめました。
当時は今よりも太っていて、月一度でもいいから、週末に運動しないと生活習慣病に陥ってしまう、それを予防するためにも旧街道を歩くのは趣味と実益を兼ね、かつ自分ひとりで気軽にできる旅だと考えていました。
「初日は日本橋から戸塚まで」と前述したのには例があります。
江戸時代の旅人は、一日目の泊まりは女性なら神奈川宿か保土ヶ谷宿、男性なら戸塚宿というのが相場でした。

一日あたり、その程度の距離を歩けないのであれば、とても江戸から京まで歩き通すことはできないということだったのでしょう。
もちろん、当時の格好と言えば着流しに振り分け荷物を肩にかけ、菅笠を被って草鞋履きという、テレビでおなじみご老公ご一行のいでたちです。
道は当然に舗装されておりません。
対して現代スポーツウェアにスニーカーやウォーキングシューズです。
道も舗装されており、江戸時代と比べたら、格段に歩きやすくなっているはずで、少なくとも同じ距離か、それよりも短い時間で歩けるはずだと踏みました。
だいいち、お正月の大学駅伝競走は朝8時に大手町を出発して午前中の早い時間に芦ノ湖畔に着いているではないかと思いました。


そこで午前10時前にスタートすれば、夕方までには戸塚、少なくとも横浜までは歩けるだろうと考えていたのです。
しかし、実際は東海道本線で次の駅である新橋あたりで、すでに足が痛くなってきて、品川の手前、田町付近でお昼になってしまいました。
つまり、お昼になっても昔の江戸から出ていなかったのです。
これはまずいとファストフードで昼食を済ませ、早歩きを試みたものの、気持ちとは裏腹に歩く速度はどんどん落ちてゆきます。
というのも筋肉が痛くなってそれを庇って不自然な歩き方になったために、ウォーキングシューズを履いているにもかかわらず。足裏に負担が集中してしまったのです。
品川宿を通り抜けるころには足指にマメができたと感じ、仕置場で有名な鈴ヶ森を過ぎて海苔屋さんの並ぶ大森あたりでそれが潰れ、蒲田あたりでは足を引きずっていました。
六郷橋で多摩川を渡るころには日はすっかりと傾き、17時のチャイムが鳴ったのは旧街道と川崎駅前通りの交差点でした。

結局、意気込みとは裏腹に、私の旧街道旅一日目は川崎までしか歩けませんでした。
家に帰ると右足の裏の皮は、ほぼ全面にわたって一枚剥がれ落ちる寸前でした。
それから数日間は足を引き摺っての生活になりました。
普通だったら、それに懲りてもうやめようとなるはずです。
しかし、私はそうはなりませんでした。
痛みによる苦痛や、早歩きしているときの息苦しさよりも、「どうしたら1日40㎞を歩けるようになるだろう」とか「この先の道はどうなっているのだろう」という好奇心の方が勝っていました。
すぐに次の点を反省して次回に生かすことにしました。

1.スタートを早める
民謡にあるように、「お江戸日本橋七つ立ち」は4時半に江戸市中を出て、高輪大木戸(江戸の内と外を分ける関門)にて提灯を消すという意味なので、それこそ歩き始めは早ければ早いほど良いということになります。
2.準備運動をする
運動前に準備体操をするかどうかで、その日に歩ける距離はかなり変わるようです。
3.姿勢を正し歩く速度は一定にする
歩くフォームを正しい姿勢に変え、一日のうちで歩く速度を一定に保つことで、体への負担を減らすことができます。
最初からとばして、あとでスタミナ切れを起こすようなことは、歩行でも現に慎んだほうが良いようです。

4.一定の時間歩いたら、一定時間休息する
55分歩き続けたら5分休むというように、メリハリをつけたほうが長い時間歩行ができます。
5.靴を変える
舗装路における長時間の歩行は足にかなりの衝撃を連続して与えることになります。
また、歩道は車が横切るために傾斜が設けられていて、長距離を歩く人向けには設計されていません。
通常、ウォーキングシューズは一日あたり10㎞~15㎞くらいの距離を歩くことを想定していて、25㎞以上の長距離歩行には向いていないようにおもいます。
もっと衝撃を吸収してくれる、靴底の厚いジョギングシューズの方が、長距離歩行には向いていると思います。


この軽い気持ちで日本橋から川崎まで歩いた経験は、現代人は街中においてそれくらいしか歩けないということを思い知るのによい機会でした。
のちに東日本大震災で交通機関がストップした時に帰宅難民が多数出るのを見て、上記の条件を満たさないまま長距離を歩こうとすることが、いかに無謀かが容易に想像できました。
なお、実際には一度の失敗で改まるわけではなく、その次の機会も歩けたのは川崎から戸塚までで、3回目も戸塚から平塚、4回目も平塚から小田原と、現代人は江戸時代の旅人の半分しか歩けない旅が続きました。
しかし、そんな私でも箱根東坂の石畳道を登り、箱根峠を越えた時に、「もうあとには引けない」という思いが強くなりました。
江戸時代なら3泊で到達する箱根峠を、のべで6日目の昼に越えたことが、逆に幸いしたと思います。
月に一、二度の旅だったので、箱根峠を超えるころには夏になっていました。
結局私が一日に30㎞以上歩けるようになったのは富士川を渡ってからでした。
40㎞以上歩けるようになったのは、愛知県に入ってからです。
でも、いろいろ工夫しながらひたむきに歩いていたら、最終的にはそれだけの距離を歩けるようになりました。