旧甲州街道にブロンプトンをつれて 17.関野宿から18.上野原宿へ | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(増珠寺下)

旧甲州街道の旅は、藤野駅の西、国道20号線沿いの関野本陣跡(相模原市緑区小渕)からはじめます。
すぐ先左手の一段上にあるのが曹洞宗の増珠寺です。
ここから北へ山向こうの沢井川沿いにある大日野原に16世紀初頭に開創され、18世紀後半にこちらへ移ってきました。
現在は津久井観音霊場25番のお寺になっています。
本陣跡から220mさき、藤野町小渕歩道橋をくぐった先で、斜め右手に折れて坂をのぼります。
坂をのぼり切ると右手奥に旧小渕小学校校舎をみながら直進し、130m先のY字分岐(「甲州古道御留坂の標柱があります)を左に下ります。
御留坂を下ってゆくと道幅はどんどん狭くなり、最後は自転車1台がやっと通れる簡易舗装の小道になって国道に出ます。
出たら横断するわけですが、国道にはカーブの途中で横断歩道も無いので、下り坂の勢いのままに飛び出すと車と衝突しますので、しっかりと停止してから左右を見極めたうえで渡ってください。
渡ったら右手(西方向)へ向かいます。

(国道から右手の坂をのぼります)

(二またを坂をのぼらずに左へ)
国道はカーブの連続する下り坂で、430m先の名倉信号まできたら、左折して国道から外れて斜め前方向へと坂を下ります。
結構急な下り坂です。
この先上野原宿の旧市街は河岸段丘の上(駅は相模川と同じレベルにあります)にあり、国道20号線を走っていても、この先長い登り坂があるのを知っているので、いま上野原の街を間近に控えてこんなに下ったら、このあとの登り坂は相当きついのではないかと不安になるほどの急な下り坂です。
名倉信号から240m境沢橋という小さな石橋を渡ります。
ここが相模の国と甲斐の国の境です。
たしかに中央線は高尾駅が東京都八王子市、西隣の相模湖駅と、その次の藤野駅までが神奈川県、そして上野原から西は山梨県ということは知っていましたが、実際の県境を意識したことはありませんでした。
因みに東海道本線における神奈川県最西端の駅をご存知でしょうか。
意外にも湯河原駅です。
その次の熱海駅は静岡県ですから。
下り列車が湯河原駅を出て間もなく渡る千歳川が県境です。
境沢橋はかつて長さ9mほどの土橋でした。
2019年秋に大雨によって橋が崩壊し、しばらく通行止めでした。
私が最初に行った時も、災害復旧工事の脇をぬけて自転車を抱えて渡りました。

(御留坂)


神奈川県と山梨県の境は、山中湖東側の三国山から道志川東側の尾根を北上し、月夜野で道志川をわたり、山を越えてここで相模川を渡り、境川に沿って北上し、生藤山の南から三国山までは相模川水系と多摩川水系を分ける分水嶺に沿ってすすんでいます。
上野原は室町時代辺りからのちに甲斐武田氏に従属する小山田氏や加藤氏の支配下にあったため、戦国時代からここが相州と甲州の境だったようです。
そういえば、奥多摩の青梅街道沿いの小菅村や丹波山村も甲斐の国でした。
東海道もそうでしたが、国境というのは小さな川によって隔てられていることがままあります。
ということは、ここが武田氏と北条氏双方の角逐の最前線ということになります。
甲斐武田氏というと、信濃をめぐっての越後上杉家との争いが有名でしたが、駿河今川氏、相模北条氏とも同盟を結んだり、手切れになって互いに相手の領土に攻め入ったりと、かなり状況は流動的だったようです。

(名倉入口交差点を左に、坂を下ります)

(向こうに見えているのが乙女坂と関所跡)
さて、境沢橋を渡って甲斐の国に入り、110m進むと神奈川県道・山梨県道520号吉野上野原停車場線に出ますので、折り返すように右折します。
左折したすぐ先には、ニールセン・ローゼ橋の境川橋がすぐそこに見えています。
ちょっと行ってみると、湖面というか、ここまで来ると川と呼んだ方がしっくりくるのですが、水面がすぐそこです。
ということは、ほぼ河原と同じくらいの高さまで下ってきてしまったということになります。
これから上野原までの登りが…と思って振り返ると、旧甲州街道の側はすぐに坂道にとりかかっています。
なお、この境川橋を境にして、下流(神奈川県)川は相模川、上流方(山梨県)は桂川と呼んでいるそうです。

(復旧後の境沢橋。ここが県境です)

(工事中の境沢橋。折りたたみ自転車でなければ通れませんでした)
旧甲州街道は、県道に出て折り返した途端に登り坂になります。
この坂を乙女坂というそうです。
長くてけっこうきついので、乙女なんてロマンチックな名前は似合いません。
ただし目線が高くなってくると見える相模湖方面の景色はなかなかなものだと思います。
つづら折りの坂をのぼってゆくと590m先の右側にあるのが、諏訪関所跡の碑です。
ここは夏など風の通り道なのか、木陰で休んでいると涼しく、ついウトウトと眠りたくなります。
小仏に続き、旧甲州街道では2番目のものですが、当初はこれより先の諏訪神社前に武田氏が二十四関のひとつとして設置したそうです。
江戸時代になると現在の位置に移転し、境川番所とか境川口留番所と呼ばれていて、通行人やその荷物、相模川(桂川)の舟運や甲州道中の輸送品を検査し、取り締まりました。
なお、戦国期には武田氏の防衛拠点としても機能していました。

(先に見えているのが境川橋)

(旧甲州街道はここでほぼ折り返して坂をのぼります)
諏訪関所跡をすぎるとそろそろ乙女坂も終わりで旧甲州街道も、桂川左岸台地上に出ます。
そのまま県道を進み、だいぶ緩くなった登り坂をゆきます。
右手に自動車教習所をみながらのぼってゆくと、諏訪関所跡から540mさき右奥が曹洞宗慈眼寺。そこから80m進むとやはり右側に日蓮宗の船守寺があります。
境内には「船守弥三郎の碑」はあります。
日蓮は1260年に北条時頼に対して「立正安国論」を提出し、その中で念仏を唱える仏教宗派(いわゆる浄土宗や浄土真宗)を激しく非難していました。
そこで念仏者たちは鎌倉幕府の北条氏を後ろ盾にして日蓮を捕えさせ、日蓮は執権によって伊豆の国川奈に流罪となりました。
弥三郎はこのとき日蓮を匿い、伊豆の国の地頭邸に彼を移してゆるい軟禁状態に移行させ、何かと世話をしたそうです。
のちに日蓮の窮地を救ったものとして、弥三郎は上原上野介の名を賜り、これが上野原という地名の由来とされています。

(乙女坂から相模湖方面を望む)

(諏訪関所跡)
そのお隣が前述した、ここにもと関所があった諏訪神社です。
起源は平安時代ごろで、この地域を支配した古郡氏によって諏訪のご神体を勧進しました。
戦国時代には武田氏が立ち寄ったとあります。
ここには芭蕉の句碑があります。
「稲妻に悟らぬ人の尊さよ」
これは前文に「ある知識ののたまはく、生禅大疵の基とかや、いとありがたく覚えて」とある通り、生半可な修行で悟ったつもりになっている禅僧など却って大きな過ちのもとで、稲妻を見て深遠な意味を悟ったようになっている人よりも、ただの自然現象として全く分からないとしている人の方が、かえって尊いのだという意味です。
たしかに、ソクラテスの言う通り、分かったようなつもりになっている人間は害悪で、自分が分からないということを知って正直に告白している人の方が、私は後進の指導には適した人材だと思います。

謙虚さのない人間は、人生の最後の方で馬脚をかならずあらわしますし、そうなってからでは手遅れだと何度もここで申し上げています。
知識人を自称している人の言うことには、よく注意してきいた方がよいのは昔も現代も変わらないようです。

(諏訪関所跡を過ぎると、上野原の河岸段丘の台地上に出ました。)

(街道からは奥まったところにある慈眼寺)
諏訪神社前からさらに旧甲州街道を西へのぼってゆくと、470mほどで中央自動車道を渡ります。
橋の名前は諏訪橋です。
上り線はちょうどこの橋の下あたりで3車線が2車線に減少するため、渋滞の発生しやすい有名な場所です。
高速道路を渡った先を左に折れて側道をゆくと、500mほどで中央道上野原バス停(上り線)です。
下り線のバス停は、その先をさらに行って作場道を左に折れて中央自動車道を渡り返した後に、手前に戻ってこなければ出られません。
中央道上野原から高速バスに乗れば新宿まで1時間で料金は1400円です。
いっぽうJRが1時間半以上かかって運賃が740円ということなので、こと上野原~新宿に限って言えば、所要時間は高速バスに、運賃はJRに軍配が上がります。

所要時間に関しては、途中停車駅(停留所)の関係でしょう。

バスは6つに対し、JRは特別快速でも11ありますから。
しかし、高速バスの所要時間は混雑の激しい中央自動車道の渋滞を勘案していないので、実際はJR同等かそれ以上かかり、運が良ければ1時間というところでしょう。

そうすると、やはりJRの方が割安でコストパフォーマンスにも優れています。

ただ、上野原駅は高速道路よりずっと桂川に近い、低い場所にある為、旧甲州街道へ出るには旧市街迄坂をのぼりくだりせねばなりません。

(船守寺)

(諏訪神社)

折りたたみ自転車をつれている私などは、その点帰る時には駅方面へは下り坂ですし、逆に来るときにJRを使っても、いまは「坂登り」が趣味ですからウォーミングアップにはちょうど良いとなります。

それに、高速バスが7~21時(上り方向)に対し、JRは5~23時で、運行頻度もJRの方が格段に高いのです。

ブロンプトンを連れている場合、深夜や早朝の足を心配することもないので、やはり鉄道の方が有利ということになります。

この辺、旧街道を歩いている人たちと大きく違う条件になるとおもいます。

高速バスなどに途中のバス停から折り畳み自転車をつれて乗る場合、わざわざ乗務員が降りてきてトランクを開けてもらえるとは思えませんし、車内に持ち込むにしてもバスの方が絶対的にスペースは狭いので、お隣の席か自席の足元に置くしかありません。

すると、お隣が空いているか、膝小僧を抱えて座るかということになり、最悪立って乗車してもOKの鉄道の方に軍配が上がります。

ブロンプトンをつれて旅する身としては、地方の鉄道を廃止してバスに転換というのは、大いに困ります。

高速バスは、大きな荷物を持って乗る人には不利ですから。

「ならば高速バス近くのコンビニに宅急便で折り畳み自転車を送るのはどうか」というアイデアが出てくるかもしれませんが、その話はまた別の機会に。

(中央自動車道を跨ぐ諏訪橋)

(疱瘡神社と塚場一里塚跡)
旧甲州街道で中央自動車道を渡ると、まもなく右手に現れるのが塚場一里塚跡です。
疱瘡神社があるのですぐわかります。
この神社、水疱瘡や皮膚病に効くといわれています。
神社の裏に塚があって、樹木はモミの木だったそうです。
塚場一里塚跡からさらに県道520号線を西へ向かいます。
右側に上野原郵便局をみながら440mすすむと、国道20号線との合流点の新町交差点です。

ここから先が上野原市の中心部になってゆきます。
次回はここ、新町交差点からはじめたいと思います。

(新町交差点で国道20号線に復帰します)