かつて合唱した英詩の和訳―映画“Fame”よりNever Alone(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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(その1からつづく)

高校2年生の合唱祭で、歌うことになった映画“Fame”に登場するゴスペルの“Never Alone”
英語の歌詞は以下の通りです。

I've seen the lightning flashing, I've heard the thunder roll
I've felt sin's breakers dashing, trying to conquer my soul
I've heard the voice of Jesus telling me to fight on
He promised never to leave me, no, never alone

(A)
Never alone, never alone, oh, never
Never alone, never alone
He'll never leave you alone

The world's fierce winds are blowing, temptations sharp and keen
I felt a peace in knowing my Savior stands between
He stands to shield me from danger when earthly friends are gone
He promised never to leave me, no, never alone

 

(A)
 

He'll never leave you alone
(B)
When in affliction's valley, I'm treading the road with care
My Savior helps me to carry a cross too heavy to bear
My feet entangled with briers, ready to cast me down
He'll never leave you alone

 

(B)

Never, never, never
Never, never, never
Never, never, never
Oh, He'll never leave you alone

 


こうやって英詩を読んでみると曲調はともかく、詩のなかで最も繰り返される重要なキーワードは“He'll never leave you alone”です。


結局合唱コンクールは次点に終わり、一生懸命盛り上げた音楽委員はくやしがっておりました。
と、その時は青春のひとコマで終わったのです。
この曲のことが気になりだしたのは、もっとずっと後になってから。
大勢と一緒にいても寂しさを感じるとき、そっと神さまがどこかにいるのではないかとあたりを見まわすとき。
何といってもゴスペルで題名が”Never Alone”ですから、詩の中身など全部わからなくても、独りを意識すればすればするほど、孤独に苛まれれば苛まれるほど、”Never  Alone”をリフレインしている(と思っていた)この歌がどこまでもついてくるという感じです。

ちなみに、今でも山の中へ一人で入ってゆくし、海外の田舎へもひとりででかけてきたような自分の実感からすると、本当の孤独というものは、ひとりで居るときには感じません。

むしろたくさんの仲間と一緒に入る時、疎外されているとか、無視されているとかそういう事実がないときでも、不意にするりと心の壁をすり抜けて孤独が入ってくるという印象です。

これは真面目に自己の内面を掘り下げたことのある人なら、誰でも経験のあることだと思います。

そして、そのような時というのは、本人は気がついていなくても、大概の場合は自分自身にとらわれている時です。

見方によっては、自己の内面へと深く潜れば潜るほど、どんどん自己への執着が増してゆき、益々孤独を深めてゆくという悪循環に陥っているともいえます。

そんな時、どうやって孤独から解放され、つながりをどう取り戻すのか。

ひょっとしたらこの英詩にヒントがあるのかもしれません。

そこで、今から15年ほど前、翻訳ついでにこの歌の歌詞の和訳があるかどうか調べたことがありました。
しかしどこにもありません。(現在も見当たりません)
それに、改めてネット上に公開されている曲を聴きながら、自分が高校生の時に歌った歌詞を思い出すと、歌ったはずの英詩とはずい分違う印象を受けます。
わたしの記憶では、“guarded by my humility”とか“Jesus is the provider”とかいうフレーズがあって、げんにそう聴こえる箇所もあるのですが、実際は違います。
決定的なのはサビの部分に“I’m never alone.”という言葉があったと覚えていて「わたしはひとりじゃない」を繰り返していたと思っていたのに、どこにもそのようなフレーズが見当たりません。
そもそも、このアップテンポな調子でこの英詩をフレーズ通り正確に歌うのは、日本の高校生にとっていくら英語が得意でもかなり難しいのではないかという印象を受けました。
で、その時は結局和訳せずに投げてしまいました。
詩の翻訳は、とくにゴスペルは少ないことばの背景の裏にある膨大な霊性について読み取って、それをまた短く簡潔な日本語で表現しなければなりません。
そんなの当時クリスチャンでもない私には無理でした。
その時は英語の歌詞をざっと読むだけで、そこからはたまに車の中で例のサウンド・トラックを聴きながら、「懐かしいな」と思う程度になっていました。


ところが、ここへきて偶然にこの曲と邂逅する機会が巡ってきました。
ちょうどこれまで支えられ、支えてきた方とお別れしなければならなくなったタイミングで、高校の合唱の際に一緒だった同じクラスの友だちと偶然入れ替わりにつながったのです。
その方とメッセージをやりとりしている際、久々にこの曲の話題が出て、当時は映画の公開翌年で譜面も発売されておらず、ピアノで伴奏する音楽委員の友だちが、苦労して譜面おこしをしたという話を聞きました。
そして、あの歌詞の和訳を読んでみたいとも言ってくださったのです。
そのときなぜか、「さあ、ほかで訳されていないのなら、お前が翻訳してみなさい。なんといっても、歌ったことがあるのだから。」というキリストの声が聴こえたような気がしました。
不思議なタイミングで翻訳のチャンスがまわってくるものだと思いながらも、毎週ミサも出ているし、去年から「祈り」に興味が湧いて、旧約聖書の詩篇を毎朝30~50篇ずつとめて聴くようにしているし、毎日祈りながら、そもそもなぜ祈るのかについて本を読んでいるし、これでも何とかクリスチャンやっているし、あの時は無理でも今ならまがりなりにも日本語にできるかもしれない、そんな風に感じ、時間をもらうことを条件に引き受けさせていただきました。
例によって私の独り善がりになってもいけないから、米国在住の友だち2人と、元帰国子女の同級生に、「詩の和訳ができたら監修して」とお願いもしました。


まずは曲の周囲をしらべて手がかりを集めるところからはじめます。
作詞作曲はアンソニー・エバンズさん。
調べると、牧師の息子さんでかなりお若い時にこの曲をつくったみたいです。
さらに、同じ歌詞でカントリー調の別の曲があるのも確認しました。
やはり歌詞は公式通りです。
映画で紹介されたこちらの合唱曲は、米国では卒業式などで歌われることがあるようです。
それにしても歌詞が難しい。
こういう場合、聖書の言葉を持ってきているケースがあるので、英語で検索したのですが、全然ひっかかりません。
ゴスペル(Gospel)だから、神さまからの福音(=善き知らせ)という原則は外せません。
なのにのっけから、“I've seen the lightning flashing, I've heard the thunder roll”です。
直訳すれば、「稲妻を見たときに雷鳴を聴いた」ですが、この過去分詞は何を意味するのでしょう。

たしかに戦争映画で”thunder””flashing”と合言葉をかけあっていたシーンがありましたが、ずっと2つがセットになっていたということ?
つづいて“I've felt sin's breakers dashing, trying to conquer my soul”ですが、この“sin's breakers”が具体的な「悪の道に誘う人たち」を指すのか、「寄せてはかえす海(罪)の波」をあらわしているのか、どちらなのでしょう。
その後に「イエスさまの声を聞いた」と続くので、冒頭の2行は逆向きの力をあらわしていることにはまちがいないのですが。


そして題名にもなっている“Never Alone”です。
Never Aloneを繰り返すサビの部分はその直前の“He promised never to leave me, no, never alone”つまり、“He'll never leave you alone”うけているのでしょう。
Heが誰なのかは言わずもがなですが、そこをどう訳すかがこの詩の肝だと思い、全体を見まわしてみると、今回気付いたとおり、“I am never alone”(わたしはひとりじゃない)とは書いていません。
高校生の時に歌いながら思っていた「わたしは独りではない。だから淋しくなどない」という、ある意味で、強がりを言っているようにもみえる歌では実はなかったのです。
後半に繰り返される(B)の部分は、有名な詩篇23篇や、イエスが十字架にかけられるゴルゴダへの道行きを彷彿とさせます。
しかし、どうしても気になるのは、主語“I”とお題の“Never Alone”が同じ一文のなかに登場することがない点です。

そして最後にあらわれる九連続の”Never”。

実際は"Never"だけを連呼しているのに、自分は”Never Alone”を9回繰り返しているのとばかり思っていました。

そのときおそまきながら、ハッとして"Never Alone"「ひとりではない」との声を発しているのは誰なのかについて閃きました。
その瞬間、私が孤独に苛まれている時、雷に撃たれて、或いは波に引き摺りこまれて、茨に足をとられて倒れ伏し、ボロボロになって心の闇に沈んでいる間も、ずっと私のことを気にかけていてくださった神さまの、わたしを呼ぶ声がスッと聴こえてくるのを感じました。
そして、なぜこのタイミングでこの歌を訳す機会がまわってきたのか、もっと言えば、38年も前に学校の卒業式で別れたきりの友だちと、なぜこのタイミングでメッセージをやり取りすることになったのか、その背後にある大きな力が働いたことを実感せずにはいられませんでした。
ひょっとして、この邂逅自体が神さまからの”Never Alone”という福音なのかもしれない。
典礼聖歌に「わたしは門の外に立ち」という歌があるのですが(411番)、はじめてノックする音が聞こえてきたような気になりました。
その週末の聖餐式の際、わたしはパンを口に入れた途端に“He'll never leave you alone”のフレーズが頭に浮かび、ぽろぽろと涙をこぼしてしまい、不覚にもマスクをしたたかに濡らしてしまいました。
はじめての経験でしたし、全然予期していなかったのですが、ただただありがたくて滂沱するほかになかったのです。
そんな気持ちを持ち続けて、この曲の英詩に向き合いました。
引っ張ってしまって申し訳ないのですが、次回は翻訳したことばをご紹介したいと思います。
(その3へつづく)