旧甲州街道にブロンプトンをつれて 12.駒木野宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

JR高尾駅北口前の、高尾駅前交差点から国道20号線を830m西へ進んだ、西浅川交差点を右折して、旧甲州街道を小仏峠へと向かいます。

両側に住宅の立ち並ぶ緩い登り坂をゆくと、西浅川駐在所を右に見て交差点から250m先の左側にあるのが、駒木野庭園です。

ここは昭和の初めに建てられた邸宅兼医院で、お隣の駒木野病院の前身、小林医院がありました。

平成21年に市に寄付され、現在は公開されています。(無料)

いつも朝に小仏峠を越えているのですが、一度だけ公開時間内に見学したことがあります。

夏でしたがとても涼しく過ごしやすそうな家屋でした。

ところで駒木野という地名は、むかし村民が絹を織って馬を飼い、鎌倉将軍家に献上したところ駿馬であったところから、駒絹が転訛して駒木野になったといいます。

駒木野庭園から駒木野病院を右に見てさらに旧甲州街道を西へ進むと、病院敷地角に地蔵をみて300m進むと、右手から中央自動車道の側道、裏高尾神明社方面から下ってくる道と合流します。

この両脇が、それぞれ手前脇本陣、奥が本陣跡となります。(標識無し)

駒木野宿は本陣1、脇本陣1、旅籠12軒で、宿内総家数は73軒、宿内人口は355人です。

旧東海道と比べれば小ぶりですが、関所があることもあって、甲州街道の中では山にあるにもかかわらず、本陣、脇本陣を1軒ずつ備えています。

(小仏川)

(駒木野庭園)

小さな橋で沢をわたり、40m進むと、右手の一段高い場所が小仏関所跡です。

関所は1592年に北条氏照によって設置され、当初は標高670mの小仏城山付近にありました。

その頃の関所は軍事上によるもので、砦に近いものでした。

そこからは富士山が良く見えたので、富士見関と呼ばれていたそうです。

しかし8年後に、小田原征伐による北条氏滅亡後に関東に入部した徳川家康によって、現在地に移されたといいます。

絵図によると、敷地の周囲136mを2mの丸太でつくった柵で囲み、小仏川を越えた南側の山麓まで216mを竹矢来で規制し、間口5間(9m)、奥行き3間(5.4m)の番所が建っていたそうです。

関所番は4人体制で臨み、小岩市川関所‘(江戸川小岩市渡し)、古利根川に設けられた房川渡中田関所、水戸街道の松戸江戸川に設けられた金町松戸関所とともに、人員を交代制でまわしていたそうです。

夜間は通行を規制し、関所が開いている時間も入り鉄砲に出女はきびしく取り締まられました。

しかし箱根同様に、実際には下番をしている地元民に頼んで道に迷ったことにして関所を抜ける人もけっこういたのではないでしょうか。

小仏関所には駒木野宿の碑もたっています。

また関所の敷地に梅林があります。

関所跡の先でもうひとつ沢を渡ると、旧甲州街道は下りにかかります。

念珠坂と呼ばれるこの坂は、両側に人家の並ぶなかをおりてゆくと、坂下の方左側に、由来が書かれた板碑を認めます。

それによると、この付近には鬼が住んでいて、旅人を襲っては金品を巻き上げていたそうです。

あるとき鬼が老婆を襲うと、彼女の懐から落ちた念珠が外れて数珠玉が散らばりました。

玉に足を取られた鬼は、そのままこの坂をころがり落ちて穴にはまり、そのまま二度と出てくることはなかったということです。

鬼の正体に関しては諸説ありますが、こうした里と山の境目に出るということは、社会からはみ出したアウトサイダーな人たちをそう呼んだのではないでしょうか。

あるいは山岳修行道場としての高尾山に隣接している場所ですから、山中で毎日のように荒行に励む人たちをみて、鬼気迫るものを感じてそう呼んだのか。

とにかく、関所のすぐ向う側で鬼の登場という所が気になります。

(小仏関所跡)

念珠坂を下り切ると道は平らになります。

初春は梅が、晩春は農家の庭先に咲くヤシオツツジが色鮮やかです。

右手に幼児園があり、ここはもと浅川小学校の上長房分校があった場所でした。

旧分校舎をそのまま幼児施設として使っているそうで、門柱などにもかつて小学校だった面影が残っています。

お隣は運動場だったのか空き地になっており、かつてはここに「天狗の絵とともに圏央道建設反対」の看板が掲げられていました。

運動場の北側、山の方をみると、中央線の線路と、その上に中央自動車道が見えます。

中央線の車窓からは旧甲州街道はよく見えますが、中央自動車道を走る高速バスの車窓からは、防音壁に遮蔽されて全くと言っていいほど見えません。

車窓オタクのわたしが高速バスより鉄道の方が好きな理由です。

(念珠坂)

また、南北を山が連なっているここ裏高尾町は、鉄道も道路も音が反響します。

鉄道の方は走っている時だけだから良いけれど、高速道路の方は24時間休みなしですから、防音機能を施工していない住宅に住む人たちは大変だろうと思います。

そのすぐ先。関所から540m進んだ左手荒井バス停付近には、お地蔵さまと庚申塔としての金剛像が並んでいます。

その向こうの小仏川には梅郷橋がかかり、向こうは天満宮を囲む形で天神梅林が広がっています。

2月の朝、たまたま前の晩に雪が降った日にここへ来たら雪中の梅が見事でした。

前の晩に凍った枝が朝陽に光り、まるでクリスマス・ツリーのように輝いて見えました。

しかし、雪は日の出とともにどんどん融けてしまい、あのような光景は朝のほんの一瞬にしか見れないものとその時に知りました。

(天神梅林)

荒井バス停から280m、左手にポストと蛇滝口バス停があり、右側に古い木造平屋建ての建物があるT字路に達します。

ここが蛇滝口です。

昔はここから右に折れて小仏川沿いを上流方向へ進み、そこで徒渉してから南の蛇滝沢を登りつめた奥の滝へ向かっていました。

今はもう少し西の圏央道をくぐった先で左折し、蛇滝橋を渡ってそのまま千代田稲荷神社から蛇滝沢に入ります。

滝から急登すると薬王院へとつづく尾根筋へ入ると、旧甲州街道からケーブルカー山上駅付近まで1時間で登れるそうですが、蛇滝から尾根筋まで直線距離で210mをつづら折りで一気に高度差160mを登り、途中道が狭く足場の悪い場所があるので、ちゃんとした靴で登った方が良いでしょう。

(蛇滝茶屋)

旧甲州街道沿い左側の建物は蛇滝茶屋といって、水行をする人たちの休憩所として使われていました。

閉まった雨戸の上には講中札が並んで架かっていて、よくみると東京の下町や上州伊勢崎など、かなり遠くから人が集まっていたことがわかります。

薬王院のホームページによると、この蛇滝と表高尾のケーブルカー清滝駅から6号路を登った先にある琵琶滝は、現在も水行道場として毎月第一土曜日と17日の御縁日の2日間、信徒のために一般開放していて、入滝料のほかに指導料も支払えば、水行の指導をしてくれるそうです。

水行は経験がありませんが、やはり滝から落ちる水を浴びながら印を結んで、一心不乱にご真言を唱えるのでしょうね。

そういえば、私がお手伝いしているお寺の池にも、水行用の人工滝があったように思います。


(慰霊碑)

蛇滝口バス停のT字路を右に入ったすぐの場所に、「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」という石碑が立っています。

ここから右へ100mほど登っていった、中央本線の線路わきに慰霊碑があります。

1945年8月5日、つまり終戦の10日前の正午過ぎ、この場所を通過した新宿発長野行き下り419列車は、米空母艦載機による空襲を受け、満員の乗客(ほぼ民間人)のうち、死者50名超、負傷者130名超の被害者を出しました。

当時八王子駅が空襲によって焼失し、途中単線区間での列車交換に手間取り、419列車は相当に遅延していて、空襲警報が発令中にもかかわらず、無理をして高尾駅を0時15分に出発したところ、この地点で米戦闘機(2~4機のP51)による機銃掃射とロケット弾を受けました。

けん引している電気機関車を守るため、機関士は機関車と客車1両半だけが162mしかない湯の花トンネルに入ったところで急停止し、トンネルに入らずに露出していた残り6両半が、執拗な反復攻撃に晒されたため、脱出して逃げることをせず、車両内に留まった乗客はほぼ助からなかったといいます。

戦闘機が去り、地元の消防団員が救護に駆け付けた際には、地獄絵図だったそうです。

次回はこの蛇滝口から、旧甲州街道を小仏峠目指して登りたいと思います。

(湯の花トンネル)