旧甲州街道にブロンプトンをつれて11.八王子宿から12.駒木野宿(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

国道20号線の高尾駅入口交差点から旧甲州街道の旅を続けます。
左手50mには高尾山を意識しているのか、寺社風建築の北口駅舎がみえます。
この駅舎はもともと大正天皇の大喪列車の始発駅として新宿御苑に設けられた仮駅舎を移築したもので、1927年に竣工しました。
2番線ホームの支柱には、1945年7月8日に受けた、米軍艦載機P51による機銃掃射の弾痕跡が残っています。
同日の攻撃では、品川区から疎開していた小学校4年生の男の子が撃たれて死亡し、母親は市内泉町にある相即寺の地蔵に形見のランドセルを背負わせ、以来この地蔵はランドセル地蔵と呼ばれています。
1987年に公開された、スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」では、主人公のジム少年が、特攻隊に哀悼を捧げながらも、P51が出現すると、“Cadillac of the Skies!”(大空のキャデラックだ:ちなみに同機はロールスロイス製のエンジンを積んでいます)と歓喜して叫ぶ場面があるのですが、東海道本線二宮駅で「ガラスの兎」をご紹介したときと同様に、戦争の悲劇を知っている身としては、当時日本人から「P公」と呼ばれたこの戦闘機に、あまり無邪気な感覚を持てません。


北口駅舎に向って右奥にはトイレがあります。
朝にここについて小仏峠や大垂水峠に自転車で向かう際は、ここでトイレを済ませるわけですが、お世辞にもきれいとはいえません。
ここから先の旧甲州街道には、小仏バス停に簡易トイレがありますが、そこはひとつしかなくバスが到着すると混雑するうえに、あくまでも簡易です。
そこで、ブロンプトンで旅する人は、国道20号線の大垂水峠を超える場合は、京王線の高尾山口駅のトイレを、旧甲州街道で小仏峠を超える場合は、圏央道直下にある高尾梅の郷まちの広場にある公衆トイレを利用されることをお勧めします。
前者は始発列車出発前の時間帯で空いていますし、後者は温水洗浄便座機能こそついていないものの、駅やバス停のトイレより利用客が少ないので、すごくきれいです。
電車に乗る前に朝ご飯を食べていれば、山に入る前にトイレを済ませることになると思うので、覚えていて損はありません。


なお、この公衆トイレには「ヤマユリ庵」という名前がつけられています。
これはヤマユリが八王子市の花になっているからでしょう。
ヤマユリというのは遅発芽(ちはつが=夏の暑さを過ごすことで休眠状態が打破され、はじめて発芽が可能になる)という習性をもっていて、種が地上に落ちてから芽が出るまで1年半かかるそうです。
芽が出てからも1,2年の間は葉が一枚しか出ないそうで、この間その単葉で一生懸命光合成をして地下の球根に栄養を蓄えてゆき、球根から花が咲くようになるまでには、種の落下から5年かかるそうです。
山野を代表するユリとして、世界的には背丈が高くて花弁が大きく開くことから、明治の初めにウィーン万博に出品されたことがきっかけで、大正時代には欧米への主要輸出品にも入っていたそうです。
白いユリは欧米キリスト教の世界では、聖母マリアの花として「純潔」「貞操」(つまり無原罪ということ)のシンボルとされています(「うるわしの白ゆり」という讃美歌があります)し、カサブランカはこのヤマユリを原種として人工的に作り出された品種です。
かつてはここから先の高尾山を含め、八王子市西部の山の斜面にはたくさん咲いていたそうですが、里山に人手が入らなくなって荒廃したのをきっかけに、イノシシやサルがゆり根を掘り起こして食害したり、心ない人によって盗掘されたりしてめっきりと数を減らし、(長野県や山梨県など)自治体によっては純絶滅危惧種に指定している所もあるそうです。

駅の話に戻ります。
かつて高尾駅は中央線国電の終点で、これより大月方面へは中長距離列車しか走っておりませんでした。
1978年8月の時刻表をみると、新宿方面から酔い客を乗せた終電は1時35分着にてここで運転を終了し、その時間ではもちろん上り列車は終了しています。
八王子・立川方面に戻ろうにも、タクシーは殆ど無く、捕まえたとしても深夜料金の時間帯です。
仕方なく、甲州街道沿いにあるビジネスホテルを訪ねるも、年末や年度末はご同類同士の競争となり、千鳥足でよろめくサラリーマンが、抜きつ抜かれつ交差点角の宿を目指す姿が風物詩になっていました。
乗り鉄としては、高尾駅で3時12分まで2時間弱待てば、長野発の上り夜行鈍行(通称山男列車)が来て戻ることができたわけですが、年末はもちろん、年度末の頃でも、高尾駅で深夜に2時間待つのは、待合室にいても寒かったろうと思います。
宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」にある通り、中央線というのは東京から放射状にのびる他の路線とは異なって、この高尾駅を境に乗客も車両内外の空気もガラリと変わり、夏などに冷房設備の無かった新宿発の急行アルプスに乗ると、高尾駅を出発した途端に冷たい風が開けた窓から入ってきて、それまで酔い客で暑かった車内の温度が一気に下がりました。
混雑して車内が暑いままだった大垣夜行とは対照的でした。
松本清張が小説「砂の器」において、殺人の証拠となる細かく切り刻まれたシャツの布片を、勝沼付近を走る下り夜行列車の車窓から恋人にまき散らさせたのは、当時の中央線夜行列車の特徴をつかんでいたからかもしれません。

なお、現在中央線定期列車には夜行はありませんから、上述のビジネスホテルは登山客やハイキング客が高尾発の下り一番列車に乗るために利用するようです。
5時15分発の大月行きは、終点で甲府行き、甲府で松本行きの鈍行に接続しますが、この乗り継ぎで行けば松本着8時31分と、新宿発6時26分松本着9時38分の下り特急あずさより1時間以上早く松本に着きますし、手前の塩尻で中津川行きに乗り換えれば、各駅停車の乗り継ぎだけで、中央線周りで12時13分に名古屋へ着きます。
因みに大垣夜行の後継列車「ムーンライトながら」が廃止された今では、品川発4時35分の東海道本線下り1番列車に乗ると、熱海、沼津、浜松、豊橋と4回の乗り換えで、10時43分に名古屋に到着します。
また、この高尾発下り一番列車に接続するのは、三鷹駅4時40分発の下り列車だけです。
もしこの列車をつかまえようとしたら、私など横浜市北部に住む人間でも、2時40分くらいに家を出て、三鷹迄ブロンプトンで走らねばなりません。

高尾駅入口交差点に戻って、今度こそ西へ向かいます。
次の高尾第二信号を左折、100mさきで中央線の踏切を渡り、京王線の下をくぐって初沢川沿いに浅川中学校方面に進むと、300m先右側、初沢北公園の隣に登山道の入口のような山道があります。
これが浅川金毘羅神社の入口です。
鳥居も何もないし、社殿はここからかなり登ったところなのですが、以前開発計画に反対してこの神社を存続させた経緯から、宮司のほかに4人の女性神主(うち一人は米国人)がいることで話題になっていました。
またこの神社のある山の中腹には、大戦末期に掘られた中島飛行機の秘密地下壕があるとか。
まさか高尾駅を空襲した米艦載機がそのことを知っていたとは思えないのですが、こんな山にという場所です。
甲州街道に戻り、高尾第二信号から400mほど進むと、「浅川上宿」という信号があります。
ここがこの先にある関所を控えた駒木野宿と間の宿で、もっと高尾駅寄りに浅川下宿が存在したのか調べたのですが、結局わかりませんでした。

このあたりまで来ると両側から山が迫ってきて、小仏峠に向っている実感が強くなってきます。
浅川上宿信号から210mさき、左へカーブをきったあとの両界橋で南浅川を渡り、ほぼ同時に中央本線のガードをくぐります。

中央線と旧甲州街道が重なるのは、日野駅の下以来です。
橋の手前の線路築堤沿いに、高尾駅方面に歩行者・自転車だけが通れる通路が伸びていますが、そこを入ってすぐの右側に赤煉瓦アーチがあり、人と自転車はくぐることができるようになっています。
その先の南浅川は短いながらも岩場で段差のある淵になっていて、むかしは獅子渕と呼ばれるちょっとした景勝地でした。
国道からは建物と線路が死角になって見えないし、中央本線で通過する際も一瞬チラッとしか見えないので見落としがちですが、表は甲州街道に面して裏が南浅川に面している数軒は、あきらかに昔の旅館のような建物ですから、甲州街道をゆく旅人だけでなく、高尾山の参詣客も宿泊して往時は賑わっていたのかもしれません。


両界橋を渡って150m進むと西浅川交差点です。
現代の甲州街道(国道20号線)はここを直進し、案内川に沿って高尾山口駅前、圏央道高尾インターを経由して谷を詰め、標高392mの大垂水峠を越えて相模川の谷にある小原宿、与瀬宿へと続いています。
バブルの頃は、峠族と呼ばれるローリング族のメッカでした。
また峠へと登る道は、夜はキンキンギラギラの「さかさくらげ」が連なっており、今のような霊山の裏はかくも俗悪かというほどに世俗化されておりました。
いっぽう、旧甲州街道はここで右折して中央本線、中央自動車道とともに南浅川の谷に入り、前に2者はトンネルで小仏峠直下を抜けるのに対し、旧甲州街道だけはしっかり山道で標高548mの峠を越えるかたちになります。
ここ西浅川交差点の標高は177.6mですから、ここから峠まで標高差は約370m。
住んでいる家の近所の標高差は高いところで40mくらいですから、その10倍はあり、完全な山道だとかなりきつそうです。
わたしは甲州街道走破に挑戦する前に、ハイキングなどで小仏峠を越えたことは一度も無かったので、山道がどのような状態だか全く分かりませんでした。
一度だけ、大垂水峠にあった名水ラーメンを食べに相模湖行きの神奈中バスに乗ろうとしたところ、間違えて京王バスの小仏行きに乗ってしまい、乗り間違えに気が付いて降りようにもハイキング客でいっぱいだったために下車できず、そのまま終点まで行ってしまったことが一度あります。
ちょうど前夜関東地方の山沿いで雪が降り、樹々の枝に着雪してそれはきれいだったのですが、このまま山道に入ったら軽アイゼンが必要ではないかと思うほどに積もっていました。


夏は高尾山のような低山は暑くて草いきれがすごく、また虫もたくさんまとわりつくのでちょっと勘弁の世界です。
ということは、春と秋の季節の良い晴れ間しか峠越えのチャンスは無いのかもしれないと思っていました。
しかし、東海道でいえば箱根峠越えにあたります。
箱根は真夏にも真冬にも越えたことがあり、畳んだブロンプトンを背負って登った時は、「もうこんなことは二度としたくない」と感じるレベルでした。
事実、それからは箱根峠越えで押し歩きできない区間について、自転車は駐輪して足で登っています。
あれから10年以上が過ぎ、旧街道の峠越えに慣れた今は、背負って越えるにしても、駐輪して足だけで越えるにしても、乗って越えるにしても、山越えに馴れ親しむために、それぞれ予行演習をしておいた方が良いと思っています。
いきなり山道に突っ込んで途中で撤退するよりは、慣れておいた方が対処も効くのです。
ブロンプトンのような小径車に好んで乗る人は、普段はあまり運動しない人が多く、これを山道に活用しようなどと考える人も少ないでしょうから、登山など習慣的にやっていない人が殆どだと思います。
肥満解消とか、生活習慣病予防などを別にしても、山道で怪我したり遭難したりしないために、せめて自分の足で登ることはしておいた方が良いでしょう。
また、旧街道の旅を続けるうちに登山やハイキングも良いかなと思う時が来るかもしれません。
旧甲州街道の場合、小仏峠を越える前に、前回ご紹介した八王子城址と、ここ西浅川交差点のすぐ先にある高尾山で演習ハイキングをしておくことをお勧めします。
何といっても、「登山は高尾山にはじまり高尾山に終わる」といわれるくらい、東京に近い高尾山は複数の魅力に富んだ登山路を擁し、山登りの基本を教えてくれるお山だそうですから。
ということで、次回は旧甲州街道の旅のスピンオフとして、高尾山に登った際のリポートをご紹介しようと思います。