旧甲州街道にブロンプトンをつれて 9.府中宿(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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旧甲州街道府中宿大國魂交番前から旅を続けます。
40m先の左側の大鳥居が、大國魂(おおくにたま)神社正面になります。
反対側には参道のけやき並木が北に向かって伸びています。
この道を真っすぐゆくと、突き当りはJR国分寺駅なのですが、けやき並木自体は東京都立農業高校手前の交差点ま」で、610mほどの区間に続いています。
このけやきを最初に植えたのは源頼義、義家親子で、前九年の役の平定後の1062年に、戦勝祈願成就の御礼として、けやきの苗木1000本を奉納したのがはじまりだそうで、この最古のけやきのうち1本は、1951年に枯死するまで残っていたそうです。
その後、江戸時代初期に徳川家康がこの道の両側(いま歩道になっている部分)に馬場を寄進し、あわせてけやきも植えたということで、今残っている並木はこの時のものだそうです。

旧甲州街道からみて、けやき並木入口の左側には万葉の歌碑が立っています。
すべて漢字で「武蔵野乃 久佐波母呂武吉 可毛可久母 伎美我麻尓末尓 吾者余利尓思乎」とありますが、読みは「武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを」となります。
意味は、「(武蔵野の草があちこちに靡きます)とにかくも、私は貴方のお気に召すようにひたすら心を寄せていたのに。」ということで、女性が男性に対して「あなたに心を寄せていたのに」のあとに何が続くのか、背景がはっきりしないのだそうです。
場所が場所だけに、任期を全うして都へ帰ることになった役人に対してなのか、或いは防人として西へ向かう若い兵士に宛てた思いなのか、いずれにしても別れの場面で歌われたようでいわゆる東歌です。
わたしなぞ、『なごり雪』の歌詞や、柴田翔著『されどわれらが日々』の最後に出てくる文夫さんあての手紙(「あなたが私の青春でした」という文面)を思い出してしまいます。


さて、街道左側の大國魂神社です。
創建は111年と伝えられ、主祭神は大國魂大神で、『日本書紀』において日本国を創った神とされる大国主神(おおくにぬしのかみ)のことです。
のちに武蔵国府がこの地に置かれたあと、総社となりました。
当時の国司(その地方の長官)は、定期的にその国の一之宮から六之宮までを巡拝せねばならず、それでは大変だということで、六つの宮を国府の近くにひとまとめにして祀ったのが総社です。
デパ地下の全国物産展というか、富士講におけるミニチュア富士山のようなものでしょうか。
だから一之宮、二之宮とナンバリングされている神社より格式としては落ちるのだとか。
なお、当時の武蔵国一之宮は大宮の氷川神社ではなく(三之宮)、多摩市の小野神社だったので、大國魂神社の六所(六神)も、そのように祀られています。
大鳥居をくぐって参道をゆくと、右にふるさと歴史館(その裏にあるのが市役所です)、左に相撲場をみながら随神門をくぐり、右に宝物殿と神楽殿、左に鼓楼をみて中雀門を抜けると、拝殿前に到着です。
本殿はこの裏側にあり、見えません。
もちろん六所がどうなっているのか分かりません。

訪ねた日は節分祭を前にした1月下旬だったので、どことなくまだお正月気分が境内に漂っていました。
この神社では、5月の3~6日にかけてくらやみ祭りという関東三大奇祭のひとつが行われます。
かつては江戸中から見物人が集まるにもかかわらず、街も含めた灯りを全て消して暗闇の中で行われたことからこの名前がつき、六張りの大太鼓と八基の神輿が回る壮大な祭りだそうです。
また3日間の中には競馬式(駒くらべ=6頭の馬が旧甲州街道を3往復する)や萬燈大会などもあるそうです。
かつてくらやみ祭りのクライマックスは嬥歌(かがい)と呼ばれる、老若男女が共同飲食しながら互いに求愛歌を掛け合いながら恋愛に発展するという歌掛き(うたがき)が行われていたそうで、その時の大國魂神社の様子は司馬遼太郎著『燃えよ剣』に描かれています。


なお、大國魂神社には次のような七不思議が伝えられています。
1.明治維新の頃までに行われていた御田植の神事の際、近在の農民が田植えのあとにその神田で踊っても、翌朝には苗が整然と植えられていた。しかし、この神田のあった場所は今や競馬場の中である。
2.拝殿前にあった樅木からは、常に雫が滴っていた。
3.同じく拝殿前に生えていた矢竹は、源頼朝が挙兵時に戦勝祈願した際に、ここに刺した矢がはじまり。
4.社殿背後にあった大銀杏には小さな蜷貝が住み着いていて、乳の出が悪い女性がこの貝を煎じて飲むと効果がある。
5.この神社の境内には松の木が根付かない。理由は昔大国主が八幡さまと同行してこの地に来たとき、相手に鎮座の場所を探させたものの、八幡さまは自分の場所だけ見つけて大国主のもとに戻らず、彼が「待つのは辛い」と嘆いた故事による。
6.この神社の屋根には鳥が糞を落とさない。
7.境内にあった大きな杉の木は、根を決して参道まで伸ばさない。
うーん、古い神社にはありがちな話ですが、その殆どは証明しようがありません。
お隣の八幡宮とはそんな遺恨があったとは。
唯一6番目だけは、屋根を掃除したり葺き替えたりしている人に聞けばわかりそうですが、私が掃除しているお寺の回廊には、しょっちゅう「お酉さま」のお忘れ物がついています。
いつだったか、キジバトの営巣を妨害したときなど、それでもの凄い意趣返しをされました。
神社はパワースポットと呼ばれますが、こうした大きくて古い神社についてはそれぞれの「七不思議」を調べて比較してみると面白いかもしれません。


大國魂神社前から旧甲州街道を200m西へ進んだ府中市役所前交差点で府中街道と交差します。
府中街道は川崎駅付近から多摩川に沿って右岸を遡上し、是政橋で渡河して府中を抜け、このまま北進して西武球場につながる道で、もともとは江戸時代に整備された街道です。
江戸時代より前は鎌倉街道だったみたいです。
私の家の近く、川崎市の中部辺りでは「府中県道」なんて不思議な名前で呼ばれている道ですが、多摩川の土手沿いをゆく多摩堤通りと同様に、混雑する道路として有名です。
ここを左折して190m先の大國魂神社西信号を右折、清水下小路という細い道を進むと、左側崖下にJR南武線の線路が見え、そのまま崖線上を進むと130mさき右側に天台宗善明寺山門があります。

このお寺に祀られている2体の鉄製の阿弥陀像には次のようないわれがあります。

府中宿の3.5㎞北に位置する現在の国分寺駅付近に、そのむかし恋ヶ窪宿があり、源頼朝に仕えた秩父出身の畠山重忠は、当地の遊女夙妻太夫(あさづまだゆう)と恋に落ちます。
そして重忠が平家追討のために西国へと旅立つ際、太夫は同行を願い出るものの、さすがに許されず、重忠は彼女を残して出征します。
すると太夫に横恋慕を仕掛けようとした男が、「重忠は戦死した」と嘘を告げ、悲観した彼女は姿見の池に入水し自殺してしまいます。
村人たちは太夫を憐れに思い手厚く葬って墓の印として松を植えました。
その後無事に戻った重忠が太夫の死を知り墓参すると、松は一葉を残して枯死寸前でした。彼は彼女を悼み、その魂を慰めるべく寺を建立してこの阿弥陀像2体を安置して弔ったそうです。
その後廃仏毀釈などの経緯をうけて、この鉄製阿弥陀如来像2体は、善明寺のお堂に祀られているそうです。
なお、善明寺山門を背に南側を見ると、すぐそばにJR府中本町駅の改札口が見えていますが、直接渡れる通路が無く、いったん人道橋で線路を渡り、反対側の崖下に下ってエレベーターで階上にあがらないと改札口にはたどり着けません。


府中市役所前交差点を左折し、少し坂を下りかけた350m先を右折して短い坂を登り直せばすぐにJR府中本町駅です。
府中本町駅は南武線と武蔵野線の乗り換え駅で、後者は始発で東京行きも発着しますが、武蔵野線はここから埼玉、千葉県を時計回りに経由して湾岸に出て、京葉線から東京に向かい(当初は第二山手線と呼ばれ、道路でいったら外環のような役割)ますので、1本で行けるとはいえもの凄く時間がかかり、途中西国分寺駅で中央線に乗り換えた方が遥かに早くつきます。
また、府中市役所前交差点を右折して北へ向かうと、約3.4㎞で中央線の西国分寺駅です。
なお、南武線もほかに並行路線のない、多摩川に沿って立川と川崎を結ぶ路線なので、いつ乗車しても混雑しているイメージです。
もし南武線で座って川崎方面へ行きたいのであれば、もう少し旧甲州街道を西へ走り、立川駅まででてから始発に乗車した方が無難でしょう。
また府中本町駅へ入らずにそのまま都道を南の是政橋方向へ下ってゆくと、前回ご紹介した妙光寺や安養寺の正面山門が左手に並び、その先でJR府中本町駅から東京(府中)競馬場西門へと続くデッキの下をくぐります。

府中市役所前交差点を渡った先左側が高札場で、造りかえてはいるのでしょうが、往時の高札場を残しています。
逆の右側にある中久本店という蔵造りの酒屋さんは1860年の創業で、隣地に問屋場がありました。
このあたりが前回ご紹介した宿場のなかの本町にあたり、江戸時代における府中宿の中心部にあたります。
市役所前交差点のすぐ西で武蔵野線を跨いでいるのですが、同線は地下を走っているため全く分かりません。
交差点から170m進んだ右(北)側、公会堂の入口にあるのが番場宿の碑です。
ここが府中宿の西端にあたります。
旧中山道に同名の宿場がありますが、府中の番場の由来は、馬場が転訛したとか、番所があったからといわれています。
公会堂の裏には、一遍上人が開山したといわれる時宗の長福寺があります。
13世紀半ばの開山と聞いても、前出のお寺がずっと古いので、相対的に新しく感じてしまいます。
時宗といえば、踊り念仏と賦算(念仏札の配布)。
大國魂神社の例大祭といい、ここ長福寺といい、府中宿は身分の区別なく、情熱的に進行する人たちが多かったのだと思いました。
番場宿の碑から80m先で、旧甲州街道は下河原緑道と交差します。
この緑道は鉄道の線路跡です。
次回はこの下河原緑道との交差地点から続けたいと思います。

(Google map より)