旧甲州街道へブロンプトンをつれて 9.府中宿(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

武蔵国府中八幡宮参道前から旧甲州街道の旅をつづけます。
既に旧甲州街道九番目の宿場にあたる、府中宿の中へ入ってきています。
甲州街道は、ひとつ手前の布田五ヶ宿を機能的にひとつの宿場として考えてひとつとして数えるか、国領、下布田、上布田、下石原、上石原とそれぞれをひとつとして5つの宿場として数えるかによって、府中宿が5番目にも9番目にもなるのですが、そのような連続してひとつの機能という宿場はこの先も続くので、細かくひとつずつ数えることにします。
ところで皆さんは「府中」と聞くと何を想像されるでしょうか。
前回にご案内した競馬場か、或いはラグビーで有名な某電気メーカーか、三億円事件の舞台になった例の刑務所でしょうか。
府中という地名は「府」=政庁+中ということで、大化の改新(645年)によって地方に行政機関が設置されるようになった律令時代に国府(今でいえば県庁)の置かれた場所という意味です。
ゆえに府中という地名は全国にあって、市政を敷いている街でいうと、ここ東京都府中市と広島県府中市ですが、旧東海道にも府中宿(駿河国の府中=駿府=今の静岡市)がありました。
ここ東京都府中市は武蔵国の国府が置かれていた場所です。
現代で言ったら都庁がここにあったということで、今に比べてずい分と西にあるものです。
昔は江戸湾(東京湾)が縄文海進により今よりずっと広かったので、現代の東京都の中心大手町や銀座は、その頃は海の中だったのかもしれません。
江戸時代は、甲州街道の中でも屈指の繁栄した宿場だったそうです。

(東京競馬場正門口)

(黄金の馬像)
420mさき府中八幡宿郵便局の手前の路地を左折すると、京王府中競馬場正門前駅の脇をかすめ、改札口脇で交差するのが京所道(きょうずどう)という五街道制定前の古い甲州街道です。
競馬が開催していない日にゆくと、駅は閑散としており日中は20分おきにお隣の東府中駅への電車が折り返すのみで、本線の新宿方面へ直通する列車は1本もありません。
もっとも、開催日でも16時台に2本の新宿直通特急があるきりみたいです。
駅前には店も何もなく、競馬場への通路が正面に通じているきりですが、改札口を背に左手に「黄金の馬(アハルテケ)」像があります。
アハルテケとは中央アジア南西部のトルクメニスタンで産出されてきた馬の品種で、光沢のある金色の体毛につつまれた細身の体躯は丈夫な四肢と筋肉質で、ゆえに他の品種に比して長距離持久力に優れた運動能力と知力を備えているとされるそうです。
しかし像の場所が場所だけに、「この像に触れてから馬券を買うと金運アップ」なんて験担ぎに利用されていなければ良いのですが。

(普門寺)

(馬霊塔)
駅前を右折して京所道に入り100m先の普門寺前交差点左側にあるのが真言宗豊山派の普門寺です。
崖線の下に位置する妙光院の末寺で、祀られている薬師如来は「目の薬師様」として知られ、9月12日の縁日には、多くの人が「お目玉」を受けに参詣するそうです。
お目玉って目上の人から叱られたりお小言を言われたりすることではなかったのでしょうか。
このお寺は競馬場と駅の双方に近いこともあって、檀信徒のための駐車場には無断駐車厳禁の看板がかかっています。
門前から南方向へ坂を下り、競馬場通りに突き当たったら右折してすぐ右手の崖下にあるのが、妙顕神社とその並びの馬頭観音、馬霊塔です。
塔の傍らには数十の墓石が並び、カタカナで競走馬の名前が掘られており、歴代の名馬はここに葬られているとわかります。
ここは駅と競馬場を結ぶ通路からは死角になっていて見えません。
そして、花や香が手向けられた跡はないので、訪れる人はまばらでしょう。
古代ギリシャの詩人が残した叙事詩『イリアス』には賞品を賭けた戦車競走の場面が歌われており、しかもその賞品とは酒器としての盃であったような記憶があります。
そんな昔から競馬があったと驚くとともに、「飲む」と「打つ」の関係もまた然りだったのでしょう。
そんな人間の欲望をよそに、こうして純粋に走ることに生命を費やした馬が、憐れに見えてきます。

(妙光院)
競馬場通りをそのまま西へ進むと、最初の左カーブの外側にあるのが、前述した真言宗豊山派の妙光院です。
開山は859年とかなり古く、京都の仁和寺の門中に属するそうです。
その南隣は天台宗の安養寺です。
ここも開山は古く、前出の妙光院と同年で円仁(慈覚大師)が開基と伝わっています。
ちょうどこの二寺の北側、崖線上に大国魂神社があり、安養寺は廃仏毀釈までは同神社の別当寺(神社に付属する寺)でした。
安養寺と競馬場通りを挟んでお向かいにあるのが府中競馬場西門で、JR府中本町駅からのペデストリアンデッキ(上空回廊)は、お寺の参道と並行しています。
その下の歩道には、おでんや焼き鳥を肴にお酒を引っかける立ち飲み屋さんが「オケラ街道」という名前で並んでいます。
きっと馬券購入ですってんてんになってしまった人が、なけなしのお金で憂さを晴らすために安酒を呷る街道筋なのでしょう。

やはり賭け事とアルコールは親和性があるようです。
そういえば、中部地方の色街へと向かう道には、「親不孝街道」なるものがあったような気が…。

(安養寺)

ギャンブルがやめられなくなった人に聞くと、「(賭け事は)負けないとつまらない」と言います。
つまり、お金をすらないとモチベーションが保てないということらしいです。
「そんなに賭博が好きなら胴元(団体職員)になって稼げばいいじゃない」というと、真面目な顔をして「胴元では勝負ができないからダメ」と返されます。
つまり、彼らは賭け事が第一で、その結果お金を得るとか失うとかは大した問題ではないのです。
「いつかは万馬券を当てて、博打のループから脱却する」という絶対に叶わない夢を見続けたいという願望とでもいいましょうか。
私は中学生になって通称ギャンブルラインと呼ばれた南武線を利用するようになり、週末の部活などの際には電車に競馬新聞を片手に赤鉛筆を耳にさした人々を見てきたので、他人事には思えません。

(安養寺から競馬場を望む)
よく、ギャンブル依存症はセックス依存症同様に、行為がやめられない態様で、原因としての脳の器質変化など病変が、アルコール依存症に代表されるような薬物中毒のように確認できないのだから、障害であって疾患(病気)ではないという説明が医師の側から為されます。
でも、そうした考えは「病気を言い訳に自己の行動を正当化している」とか「意志の問題」に帰結しやすく、やめたくてもやめられない本人にとっては、救いにならないどころか却って孤立を深めてしまいます。
「人生には賭け事や人間関係で味わうような勝ち負けに関するスリルや不安、情感よりも、もっと大切なことがある」ということに気づかないと、「ファンファーレが聞こえた途端に気がついたら馬券売り場に並んでいる(パソコンの前にすわっている)」という状態から脱せないのではないでしょうか。
なお、競馬やパチンコと違い、投資は(リスク管理したうえでの運用なのだから)ギャンブルではないということを吹聴する人がいます。
短期に利益を獲得しようとする投機と違い、資産の価値を見極めたうえで中長期的に利潤獲得を目指す投資は正常な社会への財産還元であり、ひたすら偶然を期待して貯蓄をして死に金を貯め込むほうがリスクは高く社会のためにならないとも。

(東京競馬場スタンド)

しかし、投資にしろ、投機にしろ、人間に見返りを期待させて射幸心を植え付け、それを中長期的に煽るという点で、まともな感覚を失う危険性があるという例をちゃんと説明したうえでのリスク管理だと私は思います。
そんなに財貨を社会に還元することの重要性を説くのであれば、投資よりも生活困窮者への寄付をすすめれば良いではないですか。
夢を見るのは悪いことではありませんが、人が必ずいつかは死ぬように、夢もまた、成就しようがしまいが、いつかは必ず醒めるということを肝に銘じよと説いたのはお釈迦さまでしょう。
投資でどんなに儲けようが、それを墓場まで持ってはゆけないし、代わりに持って行かねばならぬ「秘密」ばかりが増えるような人生が善いものだとは、私には到底思えません。
おけら街道の裏手の側面から塀越しに競馬場のスタンドを見上げると、もの凄く大きな建物であることが確認でき、私は入ったことがない(開催日に入るだけなら200円だそうです)ので実際に見たわけではないのですが、晴れた日には多摩川越しに遠く富士山を望むことができるそうです。
ここに通い詰めながらも、レースの合間にふと遠くの山々が美しいと感じるようになったり、帰りに馬の慰霊等に手を合わせたりするようになったら、しめたものではないかと私などは思ってしまうのですが、如何でしょう。


(府中新宿跡碑)
かなりギャンブルの話で長くなってしまいました。
旧甲州街道に戻ります。
八幡宿(はちまんじゅく=国府八幡宮の周囲にあった村がここに移転してきた)交差点をすぎ、60mさきの左側新宿公園の入口にあるのが、府中新宿跡碑です。
府中の宿場はここから西へ新宿、本町(ほんまち)、番場の府中三町で構成されていました。
なかでも鎌倉街道が交差する本町が最も古く、ここ新宿が最も新しいそうです。
さらに西へと進み、八幡宿交差点から290m先の大國魂神社東交差点を右折してすぐ左側のビルの植え込み前にあるのが、明治天皇府中行在所跡で、ここに脇本陣の(田中三四郎家)柏屋がありました。(府中宿は本陣1、脇本陣2)
田中家はもともと車返村にあって、江戸中期に府中宿に移住し、柏屋という屋号で桝酒や反物、荒物などを売りながら旅籠を営み、次第に宿内で大店としての地位をかため、幕末の頃には脇本陣になっていたそうです。
柏屋跡から駅前通りを北へ向かうと、200mで京王線府中駅の下をくぐります。
府中駅は京王線の中でも主要な駅のひとつで、京王ライナーも含め、全列車が停車します。
特急だと、新宿から明大前、調布、府中の3つ目で、これより西の京王八王子、高尾山口方面へは特急の停車駅が頻繫になるという、京王線においては都市部と郊外の境目に位置しています。

(府中国府跡)
旧甲州街道に戻り、大國魂神社東交差点から50mさき、交番手前を左折して路地を110m南下したさきの左側にあるのが、武蔵国府跡です。
朱色の柱が何本か立っていて、小さいながらも資料館があります。
「国衙(こくが)」とも呼ばれる律令制において国司が地方政務を執った役所の跡で、南北300m、東西200mの敷地に100m四方の建物がたっていたと推定されているそうです。
考えてみれば、自分が住んでいる日吉やかつて仕事で通っていた横浜、学校のあった町田はすべて武蔵国に属していて、家の近くにも鎌倉街道とは別に、府中方面へと向かう稲毛道という古道がありました。
大山街道も、今の国道246号線と別に、奥州街道の春日部宿から、中山道が通り、武蔵国一之宮がある大宮、与野、そしてここ府中から厚木市の北を経て大山に向かう、府中道と呼ばれる大山街道がありました。
つまり、鎌倉時代よりもさらに昔の南関東武蔵の中心は、ここ府中だったわけで、そういう意味からいえばもっと訪ねてもよい場所なのだと思いました。
幸い、家の近くの武蔵小杉から南武線で一本ですし、多摩川サイクリングコースを遡ってゆけば是政橋まで1時間かかるかかからないかの距離なので、横浜中心部や渋谷・新宿同様に、ブロンプトンのトレーニングがてら西へ向かって走ってゆく際の目的地、折り返し地点としてちょうど良いと思います。
次回は府中宿の残り西半分をご案内したいと思います。

(是政橋)

(google mapより)