『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』鈴木宏明著 講談社ブルーバックス刊を読む | 旅はブロンプトンをつれて

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皆さんは「バイアス」という言葉を聞いてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

英語の”bias”は、古フランス語の「斜めの」という語源から、「~の性癖、傾向、先入観」「~に対する偏見、先入主」「型のゆがみ、偏重」などの意味になります。

本書表題の「認知バイアス」とは、心の偏(かたよ)りや歪みを指しています。

単純にこう書くと、認知行動療法に代表されるような、精神疾患を持った人たちや、犯罪に手を染める人たちの一部が、周囲やものに対する見方が著(いちじる)しく偏っていることにより適応障害や迷惑な言動を繰り返している状況があって、それを病院や刑務所などの施設の中で修正するという、いわゆる認知の歪みを想像されるかもしれませんが、本書でいう「認知バイアス」とは、もっと広い意味での、人間であれば誰しもが落ち込んでしまう、思い込みや勘違い、自信過剰や自己否定などによって引き起こされ、決断や行動の結果として現れる偏りや歪みに対して用いられています。

(今日は最近のスナップです)

著者は認知科学のなかでも、とくに思考、学習における創発(=物理・生物などの分野で使われる用語で、「部分の性質の単純な総和にとどまらない特性が、全体として現れること」)を研究されてきたそうです。

どこれ研究していまどこで教員をされているか書くと、以前お話したメタ・メッセージにかかってしまうので書きませんが、研究者らしく、条件や場所を変えて様々な実験を繰り返した結果を示して、人間の心の動きの不思議さ、不可解さに切り込んでいます。

私は自分が「ど文系」だと自認していますが、講談社さんの「ブルーバックスシリーズ」はけっこう好きです。

というのも、自分のような科学に不案内かつ懐疑的な人間にも易しくわかりやすいように記述されている本が多々あるし、大半の著者は科学者らしく参考・引用文献を明示したうえで、章末や巻末に「これこれこのような分野に興味を持っている人はこの本、あちらの問題をもっと深く掘り下げたい人はあの本」というように、読者の興味にあわせてこれから読むべき本を紹介してくれているからです。

ああ、どんどん読みたい本なのに色々な意味で手が出せない本が増えてゆきます。

でも、それは人間として「読みたい本が分からない、無い」と言っている人よりも幸福なことなのだと思います。

本書も別のブルーバックスシリーズを購入して読んでゆく際に、書店の本棚に並んでいてずっと興味を惹かれながらなかなか入手できませんでした。

私は学習心理学の中でも動機(モチベーション)に凝ったことがあって、上述のような教育現場における「一足す一は二以上」という世界にはとても興味があるのです。

これをひっくり返すと「一引く一はゼロではなくマイナス」という世界もあるわけで、もしも人間の認知が普段から歪んでいるとしたら、どんな人と出会ってどんな内容の会話をしても、また、どれほど素晴らしい内容の本を読んでも、こちらの聴く耳、読む目が曲がっていたら正確には聴けない、読めないということになってしまいます。

しかも本人が「ダイジョウブ、私は正しいから」という態度で自己の認知バイアスを微塵も疑わずに他者に接したら、とくに教育者だったら「自己と同じような認知の歪みを押し付け、他者に伝播させてゆく人」になってしまいます。

これは想像以上に恐ろしい現実です。

ということで読み進めてゆくと、のっけからの1章で注意と記憶のバイアスが取り上げられます。

これは他のところに注意が行ってしまい、人物や物事の肝心なところや本質を見落としたり、記憶を自分にとって都合が良いように改変したりして間違った認識をしたまま誤った行動に出るという話で、誰もが心当たりのある部分です。

こうした状況に無自覚なまま人間は生きていることが多く、見落としが無いかチェックする、記憶の裏付けが十分かを見直すなど、できることは限られていると著者は書いています。

しかし、自覚のないまま認識していることを再度チェックしたり見直したりすることは不可能ですから、自己の認識をいつも疑っていないとダメだということなのでしょう。

でも上記のような「自分は正しい」という根拠のない自意識過剰人間と、「自分はダメだ」という自己否定人間のどちらもが、冷静に自己の自覚の無さを疑ってそれに対処するなどハナからできない相談ではないでしょうか。

けっきょく「人間とは何者か」について、普段から深く考えるように謙虚でいなさいということなのでしょう。

2章は現実問題としてけっこう重要なリスク認知に潜むバイアスです。

私たちは目の前に危険が差し迫った時、頭に血がのぼってとんちんかんな判断をしてしまうことは多々ありますが、そうでないときでも受け取った情報を間違った形で処理してしまうことが多いそうです。

とくに、私たちが同じタイプのことが100回起きることと、そのタイプの事例について100回聞くことを区別しておらず、同じ情報に何度も繰り返し接すると、それを何度も頭の中で繰り返すことで(リハーサル効果)記憶を定着させ、思い付きやすさ、思い出しやすさ(利用可能性ヒューリスティック)でそうした事象を強化してゆくと、現実とはまったく逆のリスク頻度の推定をおこなってしまうという記述には、テレビやインターネットの映像を繰り返し観ることが(本人は真っ当に情報収集しているつもりになっていても)人をいかに間違った判断に導くかということを示唆しているようで、震撼せずにはいられませんでした。

私たちがものを考えたり状況を把握したりするさいに用いる癖から導き出される概念に潜むバイアス(3章)や思考に潜むバイアス(4章)といった話が続き、5章の自己決定というバイアスにおいて、私たちがかなり周りから影響を受け、自分で決定したことでも実は他人からの伝染、モノマネになっていることを踏まえたうえで、人間の自由意思にかかわる有名な脳科学実験が提示されます。

これは半世紀前にアメリカの生理学者ベンジャミン・リベットによって行われた脳活動と意図、運動の順序を調べた実験で、結論を簡単にいえばこれまで「意図→脳活動→運動」の順で人間は行動を起こすと考えられていたのに、脳内の動き(準備電位)を調べた結果、「脳活動→意図→運動」というように、意図よりも僅かに脳の活動が先だったということが判明し、そこから「結局私たち人間は脳の奴隷なのか」というセンセーショナルな論争が巻き起こりました。

これは人のやる気がどこから起きるかについて学んだ人にはよく知られた話で、とどのつまり私たち人間には脳内の複雑な認知プロセスにはアクセスできず、私たちが意識しているのはその結果においてのみということで、行動の本当の原因は自覚できないし説明できません。

ところが人間は結果から理由を後付けしてしまいます。

そしてこういう場合、えてして「意図に基づくでっち上げ」をするのだそうです。

曰く、「裏切ったほうが得だ」「相手があんなことをしたのだから自分はこうせざるをえいのだ」「たまたまそこにあったから使っただけだ」等など。

これって自己正当化の台詞ですが、それが後から考えたでっち上げだと証明されると、自らは自分で考え決断しているつもりが、実はそれがまったく出鱈目だと分かります。

それだけではなく、私たちはしばしば他者を評価する際、その人の行動の原因は性格に起因する意図から判断しがちです。

Aさんがいつも寝坊するのは性格がだらしないからだとか、Bさんは面倒見が良く親切なのは優しい心根をもっているからだとか、Cさんが子どもをネグレクトしているのは、もともと、無責任で遊び好きな気質だからだとか、このような言説は巷に溢れています。

しかし意図による行動という原因こうもあやふやだと、そのような単純で短絡的な人の見立ては出来る限り避けて、その人の背景をもっと深く掘り下げて様々な原因にアプローチし、生物的にはこうだけど、社会的にはこうであるというような、より複眼的な人間理解が求められていると結んでいます。

他者に対して性格に原因を求める単純なレッテル貼りをしている人は確かに大勢いますけれど、彼らの中で自分のものの見方が歪んでいて、人間理解において浅薄だと気が付いている人は殆どいません。

それだけならまだしも、そういう人は自分の軽薄さを自覚しないまま他人にも伝播させるから始末に悪いと思います。

せめて自分がそのような軽薄さを広める側にまわらないようにしたいものだと感じました。

そして6章は言語がもたらすバイアスです。

言葉オタクの私にはこの章はきわめつけです。

言語は人間を取り巻く世界を構造化し、言語によって秩序だった形で他者へ自己の経験を伝達できるようになったことで、人間同士のコミュニケーションを豊かにして文化を発展させてゆくことができるようになりました。

ただ、言葉には光もあれば影もあります。

言葉を使うことによって覚えやすくなる対象もあれば、目の前の状況を言語化したことによって記憶が阻害されてしまうこともあるという実験は、言葉の持つ諸刃の刃的な性質をよくあらわしています。

また、言語を獲得している人よりもしていない人の方が絵を描くのが上手く、言語能力が発達するにつれて作画による表現力が衰えてゆくいという話は、脳の大脳皮質において論理的な使い方と直感的な使い方が対になっていると想像すればなんとなくわかります。

しかし、言葉は作者が説明しようとしている状況をバラバラに細分化してしまうので、読み手に誤解される危険がつきまとい、それを字義どおりに受け取るだけでなく、読者の側で言語を上手に組み立てて自己の頭の中で作者の伝えようとした状況を再現できた時だけ、完全に分かったということになる、とまで書かれてしまうと、こうしてブログを書いていても無力感に襲われます。

たとえば私がたくさんの言葉を費やしてここでブロンプトンの畳み方や展開の仕方を説明しても、映像を撮って伝えた方がずっとはやく正確に伝わります。

しかしそれでもなお、言葉には言葉の魅力があると思います。

対象を細分化してしまうということは、ひっくり返せば分解や分割が可能な対象に対しては強力に働くということであり、このブログでいえば旅のプロセスなどは、映像や写真より文章の方が伝わり易いように思います。

また、形にならないものや目に見えないものを説明するとき、詩的な表現を用いたいときなどは、言葉によるほか伝えようがありません。

そのあとも創造についてのバイアス(7章)、共同に関わるバイアス(8章)など、クリエイティブな仕事や、組織、集団においてどんな種類のバイアスがあり、それらを修正するにはどんな工夫が必要かという内容が続きます。

そして最終章の「認知バイアス」というバイアスで大どんでん返しが待ち構えていますが、それは読んでのお楽しみということで。

結局、前書きに示されていた「人は賢いからバカであり、バカであるから賢いのだ」という賢さと愚かさが背中合わせになっている人間の認知の仕組みをよく明らかにした本だと思います。

少なくとも賢いか愚かかの二元論で判断することの危うさは良く伝わってきました。

そして読後に持った感想は、「人間は賢明さと愚昧さの両方を背中合わせに持っているから面白い」でした。

これは、ある場面での悪は別の場面で善にもなるし、その逆もまた然りでしょう。

読者がそのことに気づけば、この本を読んで認知バイアスを恐れる必要も無ければ、歪みを正そうと躍起になる必要もないことが現実味を帯びて理解できるようになると思います。

<こんな方にお勧めです>

・自分の思考や判断バイアスがかかっていないか確かめたい人

・人を指導する立場にある人

・ひとや物事を複合的に見たい人

・自分とは違う立場の人たちにも思いやりを示したい人

 

<この本を読んで読んでみたくなった本>(章末ごとにブックガイドがあり、読んでみたい本はやまほどあるため、その一部のみ)

・『ことばの発達の謎を解く』今井むつみ著 2015年 ちくまプリマ―新書

・『考えることの科学:推論の認知心理学への招待』市川伸一著 1997年 中公新書

・『意識をめぐる冒険』C.コッホ著 2014年 岩波書店

・『喪失と獲得』N.ハンフリー著 2004 年紀伊国屋書店

・『増補 責任という虚構』小坂井敏晶 2020年 ちくま学芸文庫

・『服従の心理』S.ミルグラム著 2008年 河出書房新社

・『類似と思考』鈴木宏明著 2020年 ちくま学芸文庫