旧東海道にブロンプトンをつれて 京都三条大橋到着後(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(その1から続く)

三条大橋から三条通りを70m西へ行った信号機のある交差点で交差するのが有名な木屋町通りです。
通りの西側には森鴎外の小説「高瀬舟」で有名な高瀬川が通りに沿って北から南へと流れています。
この木屋町通りを左折して南下すると材木町を経て300m先が土佐藩邸跡です。
逆に右折して北上すると、土佐勤皇党の吉村寅太郎や武市瑞山(通称半平太。司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を読んだ人ならお判りでしょう。)の寓居跡、高瀬川を挟んで姉小路橋の向こうに池田屋事件の頃に桂小五郎(のちの木戸孝允)が潜伏していた対馬藩邸跡、そこから木屋町通りを40m北へ行った右側が佐久間象山寓居跡、さらに御池通りを越えて190m北上した右側が、桂小五郎・幾松寓居跡(幾松さんは桂=のちの木戸孝允の奥さんになった人です)でした。

桂小五郎は「逃げの小五郎」として有名で、後述する池田屋事件でも対馬藩邸に潜伏して難を逃れます。
また禁門(蛤御門)の変で敗れた長州藩が都を追われた際には、幾松の助けで一時鴨川に架かる橋下の乞食になったり、但馬出石で荒物屋の主人に偽装して隠れたりと、現代でいうスパイ映画の主人公みたいなことまでしていました。
ただ彼は楽天家の坂本龍馬と違ってメランコリック(気鬱)な性格であり、こうした波乱万丈の人生がたたってか、明治になってわりと早くに病没します。
その10m先の「兵部大輔大村益次郎公遺跡」は、明治2年(1969年)8月に(今の軍政局長官にあたる)大村益次郎が、攘夷派浪人に襲撃された場所です。

(同じ場所で5年前の1964年7月に佐久間象山が暗殺されています)

大村益次郎は周防の国鋳銭司村(今の山陽本線四辻駅南側)出身の学者・軍政家で、もとは村田蔵六という名前の村医者でした。
はじめ防府でシーボルトの弟子から医学と蘭学を学び、師の推薦で豊後日田にある広瀬淡窓の咸宜園に入って漢籍、算術などを学び、さらに大坂に出て緒方洪庵の適塾に入り、そこで磨きをかけたオランダ語で、医学、舎密(化学)、究理(物理)を極めて塾頭にまでなりました。
その後宇和島藩に出仕し、オランダ語で書かれた洋書が読めることから、藩士に向けた西洋兵学と蘭学の講師になり、当地でのちに西洋砲台と軍艦(のちの前原巧山と協力し、長崎にて学んだうえで、わずかの差で国産二隻目の軍艦が完成)製造を行いました。
その後幕府の蕃書調所(洋学研究機関)教授を経て長州藩に出仕、長州藩の保守派が高杉晋作らの挙兵によって打倒されて、反論が幕府への恭順から攘夷倒幕に転換すると、軍政官として藩内の兵制、武器等を西洋式に改め、二次にわたる幕府の長州征討に司令官として抗戦、勝利を収めます。
さらに戊辰戦争では明治新政府の軍務官として上野戦争(彰義隊討伐)、長岡戦争、会津戦争、函館戦争などの作戦指導を行いました。
一連の内戦が終了すると、事実上の軍務大臣として廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校の設置による職業軍人の育成と、事実上日本陸軍の基礎をつくる仕事に取り掛かりますが、この過程で士族を軍に組み入れるか、これまでの武士に依存せず、身分にかかわりなく徴兵制を敷いて政府直轄の軍隊を編成するかで、前者を押す大久保利通と激しい論争になります。


と、ここまで書くと大村益次郎という人はとんでもない西洋かぶれどころか、西欧合理主義の権化のような人物に映りますが、実際には洋服など着たことも無い、また郷土愛から日本の植民地化を目論む西欧列強に対しては断固とした態度を取る攘夷論者だったようです。
同じ適塾門下の福沢諭吉の『福翁自伝』には、師の緒方洪庵の通夜の席で、長州藩の攘夷政策をめぐって口論になったことが記されています。
司馬遼太郎の小説『花神』や『鬼謀の人』に描かれた性格は、前向きながらもひたすら自分の信じた道を学問や戦いで切り開いてゆこうとする同じ長州藩出身の吉田松陰や高杉晋作に対し、一面では頭はすごく良くて決断の早い機械のような性格なのだけれど、別の面では不愛想でつかみどころのない茫漠とした印象の彼が描かれています。
村医者だったころ、夏に村人から「お暑うございます」と挨拶されると「夏はこんなものです」と返し、却って治りが悪くなるとして、怪我人や病人に滅多に薬を出さなかったりするかと思えば、戦って引き揚げてくる兵士のために橋を補修して置いたり、彼らの食事の内容を気遣ったりと、今でいうアスペルガーではないかと思えるところがあります。
けっきょく明治2年(1869年)8月に、ここ三条木屋町で上述した兵制改革に反対する元長州藩士ら攘夷浪人に襲われて重傷を負い、翌月大坂に運ばれてオランダ医のボードウィンと緒方惟準(これよし=洪庵の次男)によって左大腿部切断手術を受けるものの、手遅れから敗血症になり、同年11月1日に死去します。
彼のお墓は故郷鋳銭司村にありますが、切断した片足は遺言により大阪北区にある緒方洪庵の墓の隣に埋められました。


司馬先生は『花神』のあとがきでこんなことを書いています。
『村田蔵六(=大村益次郎のこと)などという、どこをどうつかんでいいのか、たとえばときに人間のなま臭さも搔き消え、観念だけの存在になってぎょろぎょろ目だけが光っているという人物をどう書けばよいのか、執筆中、ときどき途方に暮れたこともあった。
「いったい村田蔵六は人間なのか」と考えこんだこともある。
しかしひらきなおって考えれば、ある仕事にとりつかれた人間というのは、ナマ身の哀歓など結果からみれば無きにひとしく、つまり自分を機械化して自分がどこかへ失せ、その死後痕跡としてやっと残るのは仕事ばかりということが多い。
その仕事というのも芸術家の場合ならまだカタチとして残る可能性が多少あるが、蔵六のように時間的に持続している組織のなかに存在した人間というのは、その仕事を巨細にふりかえってもどこに蔵六が存在したのかということの見分けがつきにくい。
つまり男というのは大なり小なり蔵六のようなものだと執筆の途中で思ったりもした。』(司馬遼太郎著『花神(下)』新潮文庫刊)
これを読むと、なぜこの作品が高度成長期のサラリーマンに愛されたかがわかるような気がします。
そのすぐ後に解説者も書いていますが、『花神』は『世に棲む日々』と一対を為していて、上述のように主人公がある意味好対照になっています。
また、西国街道をゆけば蔵六の故郷鋳銭司も通りますし、奇兵隊のふるさと吉田や、終点の赤間神宮の先には高杉晋作が挙兵した功山寺もありますので、西国街道をたどるならぜひ読んでみたい本です。


三条通りに戻って木屋町通りとの交差点から50m西の右側には、元治元年6月5日(新暦で1864年7月8日)、祇園祭の最中に行われた長州藩、土佐藩等の尊王攘夷志士たちの秘密会合に、京都守護職配下の新選組(当初は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名)が御用改めと称して斬り込みをかけ、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶磨(きたぞえきつま=のちに子母沢寛によって創作された階段落ちで有名)、望月亀弥太(もちづきかめやた)等が死亡した旅籠の「池田屋騒動之址」があります。
この事件によって8名の攘夷志士が死亡、これに激高した強硬派に引きずられて、長州藩は禁門の変をおこすことになります。
池田屋に関しては、ドラマには描かれないその後について、子母澤寛著『新撰組始末記』(中公文庫刊)に書かれている内容をご紹介しましょう。
死亡した志士たちの遺骸はその晩のうちに鴨川対岸の三条縄手にあった三縁寺に投げ込んだものの、夏のことで腐敗が激しく、あとで死体を埋めて首を晒す際に誰が誰だか分からなくなり苦労したそうです。
三縁寺はその後北に7.2㎞離れた岩倉に移転しました。
境内には池田谷事変殉難烈士の石碑があるそうです。


可哀相なのは池田屋の主人惣兵衛で、白刃閃くなかを妻子ともども脱出、家人を親類宅に匿ったあと自身も姿を隠したものの、翌日には捕らえられて奉行所へ引き立てられ、たった1日の取り調べで入牢となり、翌月には牢内で熱病に罹り亡くなります。
妻子も捕らえられたもののお情けで助命され、町役人宅で半年間軟禁され、池田屋に戻ったのはその年の暮れだったそうです。
これまで志士たちが会合していた理由は、京に火を放って天皇を拉致し、クーデターを行うためのものだったとされてきましたが、どうもそれは取り締まる幕府側のでっち上げ、或いは拷問による自白が根拠で、実は新選組に捕らえられた同志を救い出すための相談だったらしいのです。
もちろん池田屋主人の惣兵衛は会合の内容まで知らないでしょうから、とんだとばっちりだったと思います。
このように、幕末の京都はえらく物騒だったようで、新選組が名を馳せて勢いがあったのも禁門の変くらいまでで、その後は鳥羽伏見の戦いを皮切りにどんどん落ち目になってゆきます。
逆に長州藩は禁門の変から下関攘夷戦争あたりがどん底で、藩論を倒幕に回転させて臨んだ四境戦争(長州征討をあちらではこう呼びます)から、薩摩や土佐と組んで大政奉還が成る頃から完全に息を吹き返します。


このように、三条大橋を渡った先すぐの周辺は幕末から明治にかけての歴史好きにはたまらない遺跡だらけです。
だから、歴史好きの旧東海道を旅してきた人は、三条大橋に着いた時点で燃え尽きて帰るのではなく、そのままこの付近に宿を取って翌日に周辺をお散歩すると良いと思います。
私も旧東海道の旅を終えてからというもの、それまで(宿泊料が安いから)利用していた京都駅周辺はやめて、この付近に定宿をみつけるようになりました。
次回ご紹介しようと思いますが、三条はカトリック教会も近いのです。
なお、池田屋事件とよく混同される坂本龍馬が捕り方に襲われた寺田屋遭難や、薩摩藩の上意討ちがあった寺田屋事件の寺田屋は京都からずっと南の伏見にあり、坂本龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺された近江屋跡は、このすぐ先の河原町通りを左折して350m南下した右側、三条河原町と四条河原町の中間にあります。
そして三条大橋の西際から200mさきの三条河原町交差点で河原町通りと交わった三条通りは、この先で三条名店街というアーケードへと突入します。
次回はこの三条河原町交差点から西へ向かいたいと思います。

(その3へ続く)