旧甲州街道にブロンプトンをつれて 1.内藤新宿~2.下高井戸宿(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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(新宿駅新南口前)

新宿駅新南口駅前から旧甲州街道の内藤新宿を後にして、次の宿場である下高井戸へ向かいます。
現在の甲州街道であり、国道20号線でもある旧甲州街道は、その名も甲州街道跨線橋を渡ってJR線、小田急線を跨ぎます。
道路の右側、南口が新宿区、左側の新南口は渋谷区と、甲州街道が区界になり初台まで続いています。
ここで新宿駅の歴史について振り返ってみます。
新橋~横浜(桜木町)間に日本ではじめての鉄道が開業したのは1872年10月15日のこと。
それから13年後の1885年3月1日に当時の日本鉄道(半官半民の会社)が、品川~赤羽間に上野~熊谷間に設けた路線の支線(現在の山手線の一部と赤羽線)を設け、その中間駅として開業した内藤新宿駅が、現在の新宿駅のルーツです。
開業当初、ここは東京市には含まれておらず、南豊島郡という郡部であり、田畑が広がっていて、利用客も少なかったそうです。
その後1923年の関東大震災により、それまで東京の中心であった浅草、上野、日本橋、銀座など下町の地盤が弱いことが判明し、人口増加の軸足が徐々に武蔵野台地上へと移るにつれて私鉄線が乗り入れるようになり、戦前の1931年の段階で乗り換え客も含めた利用者数で日本一、そして1966年に乗車人数で日本一、2017年の段階で一日平均の乗降者数が353万人と、ギネス記録で世界一に認定された、文字通りのマンモスターミナル駅です。
一日の平均乗降客数が横浜市や静岡県の総人口に匹敵するって、ちょっと想像がつきません。
新南口は新宿駅の中ではもっとも新しい出入口ですが、甲州街道を挟んでお向かいの南口は、当時は北側の青梅口に対する甲州口として、1906年に設けられました。

(南口)
山手線が現在のような環状運転になったのが1925年。
当時甲州口にあった駅舎は、1945年の空襲、1961年の火災と、2度にわたって全焼しました。
今の南口駅舎は1963年に再建されたものに改築が複数回加えられたのち、1984年にミロードと名付けられた駅ビルが開業したものです。
新宿というと、東口と西口ばかりが目立ち、南口はタカシマヤタイムズスクエアがオープンするまで端役のような存在でしたが、もとは南北にそれぞれ街道名を冠した出入口しかなかったとは知りませんでした。
子どもの頃の新宿駅の思い出といえば、中央総武線各駅停車と山手線外回りが発着する15,16番線ホームから駅の窓越しに見える小田急ロマンスカーの車体と、金曜日や土曜日の夕方になると、中央線で山へ向かう人たちの列車待ちの列が、東西をつなぐ地下通路に、大きな荷物と一緒に伸びていたことです。
当時は特急あずさや急行アルプスだけでなく、今は高尾始発となってしまった甲府、小淵沢、松本行き鈍行列車も新宿駅から出ていました。
とくに有名なのが23時55分発長野行きの夜行鈍行で、通称「山男列車」と呼ばれていました。
週末のその列車の座席は満席、網棚に収まらなかったキスリングザックが床を埋め、そのたもとで雑魚寝する猛者たちで足の踏み場もないほどだったと言います。
(さらには網棚で寝るつわものまでいたそうな)

さて跨線橋を渡り切った甲州街道は西新宿1丁目交差点へと坂を下ります。
ここで右折し西口方面へと向かい、1本目の国際通りと呼ばれる路地を左折します。
実は今の甲州街道は新たに付け替えられた道で、もとはこの国際通りが旧街道でした。
この通りがなぜ国際通りと名付けられたかというと、300mさきの突き当り向こうに、KDDIビルがあるからです。
KDDIビルはその頃「国際通信センタービル」という名前で、KDD(国際電信電話株式会社)の本社がありました。
1985年、それまで郵政省管轄の特殊法人だった同社は、電気通信事業法が施行され、電気通信事業への新規参入や電話機ならびに回線利用制度の自由化に伴い、それまで、海外取引のある会社や、留学生や家族が海外に住む特異な家庭しか利用しなかった国際電話について、“Zero Zero Wonderful KDD”というキャッチフレーズのテレビCMを流し出しました。
私はその前にCMに出てくるプラハやマドリード、上海、ニューヨークへ旅したことがあったので、懐かしく観てました。
今みたいに、思い立ったら飛行機に乗ってという時代ではなく、パスポート取った後もビザ取得や航空券入手など手続きが煩雑で、くわえてあの頃の国際電話って考えられないくらい通話料金が高く、海外から国内へも、その逆も、気軽に掛けられるような雰囲気ではありませんでした。

(国際通り)
国際通りを210mほど進み、ひとつ目の信号で左折して都道8号線を60mゆくと、甲州街道と交差するので右折して復帰します。
旧東海道もそうでしたが、旧道をたどる場合、このような細かい路地も最初からきちんとなぞるようにしないと、先に進むにつれてどんどんいい加減になってゆきます。
そうすると、甲州街道のような山道を控えている場合は、面倒くさいから傾斜のゆるい国道を行こうとか、自転車を担いで山道を登るのは嫌だからトンネルで向こうへ出てしまおうなどと、なぜ徒歩の代わりに折りたたみ自転車を用いてまで忠実にたどっているのかわからなくなるので、省略は極力避けましょう。
旧街道をたどるのは、ひとえに昔の旅人たちの気持ちに近づきたいからで、便利さや快適さを追求し、途中を省略しても目的地へ要領よくたどり着けさえすればよいという現代の旅へのアンチテーゼなのですから。
なお、これを人生に置き換えますと、他人を蹴落とし、退けてまで財産や人望を求め、それらを貯め込み、或いは幼稚な自己愛に浸ることばかりに汲々とする人生を降り、一歩ずつ自分の足で歩いて、やがて来る死までの間にご先祖様方をリスペクトすることに専念しましょうということです。
先祖供養とは、お墓を立派にし、或いは宗教法人に多額の寄付をすることだけではなく、機会をもうけて先人たちの苦労に心を向けることも含まれるのではないかと私は思うのですが、如何でしょう。


甲州街道に出て、新宿駅を背に初台方面へと左側歩道を進みます。

正面右手には特徴的なパークハイアットホテルの入る3連のパークタワーが望めます。

上部が三角形の三段構造になってとても目立ち、丹下健三氏の設計として有名です。

この高層ビルが建つ前は、東京ガスのガスタンクがここにあったそうです。
左手に京王新線新宿駅の出口をみながら西へ向かうと、左側のかなり広いスペースの向こうに文化学園大学があります。
青山にあった婦人子供服裁縫店の裁縫授与所が発祥で、前は文化服装学院といいました。
与謝野鉄幹・晶子夫妻などが創設し、駿河台にあった文化学院と間違えやすいのですが、こちらはファッションデザイン系の学校です。
大学校舎と甲州街道の間にはかなりのスペースがあり、この歩道となっている部分が玉川上水の跡です。
(文化学園前の新宿よりには、玉川上水の碑があります)

 

(甲州街道からみるパークタワー)

四谷大木戸のところでも説明しましたが、玉川上水は江戸時代前期に完成した上水路で、ほぼフルマラソンのコースと同じ距離を、92.3mの標高差で水を流しているため、武蔵野台地の主脈尾根稜線上を忠実にたどっています。
その証拠に、今は代々木緑道となっている上水跡は、文化学園の西で甲州街道とは別れてやや南方向へと曲っています。
旧甲州街道の方は、水を流さねばならない事情はありませんでしたから、まっすぐ西へむかっていたのでしょう。
その分、旧街道の方が、北側の神田川及び南側の渋谷川両水系の谷が入り込んでいる場所など、多少のアップダウンはあったし、それは現代の甲州街道も同じのはずです。
なお、今は甲州街道の地下にもぐっている京王線は、地上を走っている時には玉川上水の暗渠上に線路が続いていたそうです。

(左が文化学園)
文化学園の前から80m先の左側には小さな祠があります。
これが箒銀杏(ほうきいちょう)天満宮です。
むかしはここに大きな銀杏の木があって、遠目には箒を逆さにして立てかけたように見えたからこの名前がつきました。
今でも甲州街道沿いには銀杏並木が続いていて、木によっては秋に銀杏(ぎんなん)を落とすので、それを箒で掃いたからかと勘違いしていました。
この神社にはたしかにお隣のマンションの7階くらいまで届く大銀杏があり、都の樹として植えられている街路樹並木の銀杏と貫禄が桁違いです。
そして天満宮の角を左折してすぐあるのが天神橋跡の碑です。
ここには玉川上水に南の代々木村と北の角筈村の境があったそうです。
尾根上にたつ天神様と大銀杏は、両方からよく見えたのでしょう。
今は甲州街道の北が新宿区、南が渋谷区です。
その先の甲州街道は、上に首都高速道路が蓋をします。
旧東海道はこのような道が無かったので良かったのですが、実際に自転車で走ってみると、車やオートバイ以上の圧迫感を感じます。
雰囲気だけでなく、高速の上を走る車が継ぎ目を越えるときに出す音も、下で聞いていると相当なものです。
それに、道路反対側の様子はまるでわかりません。
この状態が桜上水の先まで続くと考えると、頭が痛くなります。
なにもむかしの五街道の上に高速道路をつくらなくても良いのに。
上を走っている車には、旧街道なんてまったく関係ないのですから。

諦聴寺

(西参道交差点)
天満宮からさらに170m進んだ先の左側にあるのが真宗大谷派の諦聴寺です。
江戸前期に四谷にて創建され、そこから静岡県の清水へ移り、江戸中期の享保年間にこの場所へ再度移りました。
ご本尊の木像聖徳太子立像は渋谷区の有形指定文化財となっています。
そのお隣が同じく大谷派の正春寺です。
土井昌勝の妻(初台の局=徳川家忠の乳母)の娘(梅園局=徳川家光乳母)が開基のお寺です。
明治になって、江戸時代から続く江戸歌舞伎三座の一角、市村座の経営権を取得して、当時の若手歌舞伎役者、六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門を育て、歌舞伎座に対抗した田村成義の墓があります。
正春寺の先が、西参道口交差点です。
その名の通り、ここから南へ進む道が明治神宮の西参道で、この道は小田急線参宮橋駅の先で右折して明治神宮、代々木公園の西の縁を南へ向かい、井の頭通と合流して渋谷駅へ向かいます。

西参道交差点からこの道を逆に北に進むと、パークタワーの裏手にあるのが有名な新宿中央公園です。

昔は下から上に吹きあげる円形の噴水があって、高層ビル群を背景によくテレビに登場していたのですが、時代が変遷するにつれて、上から下に流れる滝形式に変わりました。

その方が、昔のこの辺りに相応しいわけですが、公園での水の扱いも時代とともに変わってゆくのでしょう。

(春の小川水源あたり)
西参道交差点から310m甲州街道をすすむと、初台交差点です。
この間、国道を走っていると気付かないのですが、左でビルの向こうに玉川上水跡の暗渠である緑道から、南へ下る坂道があって、その坂の途中で左に入ると「ここら辺りが春の小川の源流」という場所があります。
春の小川とは、唱歌の「さらさら行くよ」の小川です。
作詞者の高野辰之(彼は「ふるさと」「朧月夜」「もみじ」「春がきた」「日の丸の旗」など、日本人なら誰もが知っている歌の作詞者でもあります)が、作詞当時に住んでいた家が、渋谷を流れる宇田川の上流、河骨(こうほね)川近くにあり、家族とともにこの小さな川に親しんでいたからということで、これより南の小田急線線路沿いにある「はるのおがわ公園ひろば」に記念碑があります。
そこから河骨川をさらに上流へと辿ってゆくと、この玉川上水跡のすぐ下にある水源地にたどり着くということです。
江戸時代は、玉川上水の水を一部河骨川に落としていたということで、今は住宅街の暗渠になってしまった春の小川が、昔はあの歌の通り、岸辺にスミレやレンゲの花が咲き、水中には蝦やメダカ、小鮒が泳ぐ、農村地帯を流れる美しい川だったことがわかります。
おそらく、旧甲州街道の尾根上から眺めると、入り組んだ谷間に田んぼや畑が点在する、長閑な風景だったのだろうと思います。

(初台交差点)
そんな空想はすぐに傍らを走る車の騒音にかき消されてしまいますが、次回は初台交差点から旧甲州街道を西へ向かいたいと思います。