旧東海道にブロンプトンをつれて53.大津宿(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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(義仲寺入口)

旧東海道の旅もついに53番目、最期の宿場になりました。
両端の日本橋と三条大橋を除いて53の宿場だったわけですが、少ないようでいて多かったと思いますし、それぞれが個性に富んでいました。
普段は神奈川県に住み、日本橋を出発してきた自分には、ここまで来ると完全に関西に来たという気がします。
東海道新幹線に乗って西へ向かう際、どのあたりから関西を意識するかといえば、名古屋を出発して関が原を過ぎ、米原や彦根など琵琶湖畔の街が車窓に映った時じゃないかと思いますが、旧東海道の旅に関して言えば、鈴鹿峠を越えて三重県から滋賀県に入り、だんだんと人家が増えて来た時点で、中部地方ではなく近畿地方に来た、すなわち関西に来たと実感します。
だから、宿場でいえば土山、水口、石部、草津、そして今度の大津の5つの宿場が、東海道における関西の宿場ということになります。
これは古代と感覚が同じで、奈良や京に都が置かれた時代、関の西東という場合の関は、東山道の不破関、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関の三関を指しました。
つまり、鈴鹿峠の向こう側は全部関東だったのです。

(本尊と三人の位牌が安置されている朝日堂)

(源(木曾)義仲の墓)
武士の時代になって、鎌倉幕府が成立すると、東国の武家政権は殊更に西の朝廷を意識するようになり(権力の新参者としては当然でしょう)、西国方に対する関東方を自認するようになり、自分たちの支配権が及ぶ範囲を「関東」と呼称するようになったため、関東と関西の境は遠江や三河の国まで東へ寄りました。
それが室町幕府になると、鎌倉(関東)公方とその補佐役である関東管領という役職が登場するようになり、関東の定義はそれまで坂東とよばれてきた、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野に甲州と伊豆を加えた地域になりました。
今の一都6県に極めて近い範囲です。
その一方で吾妻鏡には関西38か国、関東28か国と日本を2つにわけて東半分を関東としており、この概念でいうと、ここ大津より東の全てが「関東」とされています。
京都に六波羅探題をおいて監視していた鎌倉幕府ですから、琵琶湖の東はすべて地元だと言いたかったのかもしれません。
そうなれば、彦根や草津から京都に通っている人たちだって、東夷(あずまえびす)になってしまいます。
箱根の関の東側、関東平野を「関東」と呼ぶようになったのは江戸幕府からで、箱根の東、上記の坂東8か国を「関八州」と呼ぶようになったそうです。
私は乗り鉄だから、前に書いた通り京阪石山本線の車両をみたとき、関西だと感じたわけですが、人によっては車のナンバープレートを見かけ、或いは関西にしかないような食べ物屋さん、例えばたこ焼き屋さんを見たりしたときにそう思うのかもしれませんね。

(巴御前の墓)
さて、そんな大津宿は義仲寺(ぎちゅうじ:天台宗単立 35.003226, 135.880135)からはじめます。
その寺院名からわかる通り、ここは木曽義仲のお墓があるところです。
1184年、宇治川の戦いに敗れて僅か5騎で落ちのびた義仲は、前にお話に出てきた側近の今井兼平が敵を防いでいる間に愛妾巴御前を逃がし、粟津の松原で自害を試みたものの、馬が深田にはまって身動きがとれなくなったところを、敵に額を射抜かれて落命しました。
強弓で知られる巴御前もまた、義仲の幼馴染だったわけですが、「自分と一緒に死ぬよりも、落ちのびて自分の最期を語ることで弔ってくれ」と頼む義仲に対し、別れ際に「最後のご奉公でございます」と言って、力自慢で評判の敵将御田八郎師重を、馬を並べて引き落とし、首をねじ切ったと伝わっています。
それほど巴御前は男勝りで一騎当千の女武者だったといいます。
戦後、各地を放浪したのち義仲の墓の近くに留まり庵をむすび、自分は名もなき女性だとして尼僧になって日々供養したのが、今の義仲寺ということです。
少し後にやはり頼朝と対立して追われる身となった義経の愛妾、静御前とはある意味対照的です。

(無名庵)

(芭蕉の墓)
何度か前を通って気になっていたので、300円の拝観料を支払って中へ入ってみました。
木戸をはいってすぐ右側の資料館は通過して、その奥にあるのが朝日堂で、この名は平氏を都落ちさせた義仲が、後白河法皇から朝日将軍の称号を得たことによります。
ここが本堂にあたり、本尊の観音様と、木曽義仲、義高親子、松尾芭蕉の位牌が収められています。
義高は義仲の嫡男ですが、父が入京したときには11歳で、人質として鎌倉へ送られました。名目上は又従姉妹にあたる頼朝の長女、大姫の婿という立場でした。
しかし、父義仲が京を平定することに失敗し、後白河法皇とも対立して鎌倉方から追討軍が発せられ、上述した粟津の戦いで討たれると、鎌倉に居て大姫の遊び相手になっていた義高の立場も悪化し、頼朝が自分を誅殺しようとしていることを察知した彼は、大姫の手引きもあり、女装して鎌倉を脱出しました。
しかし、一日遅れで人質の逃亡を知った頼朝は追手を差し向け、義高は武蔵国入間河原で討たれました。

(境内にはバショウが目立ちます)
義高の死を知った大姫は寝込んでしまい、これを見た母の北条政子は夫頼朝を詰ったため、入間河原で義高を打ち取った家来は、首を刎ねられて晒されたといいます。
僅か11歳の少年、しかも親戚筋の子を殺すよう命じ、結果が悪いと討ち取った家来のせいにして処刑してしまう。
頼朝の鎌倉幕府って、最初からかなり陰湿です。
当時の権力闘争では見逃すと今度は自分が危うくなるから(実際に平清盛は少年だった頼朝の命は取らずに伊豆へ流すだけで留めたために、のちの平家滅亡を招きました)とはいえ、巴御前のように出家させて父の菩提を弔わせるとか、他に方法が無かったのでしょうか。
そんな諌言した家来も、頼朝・政子夫婦の逆鱗に触れると処刑されてしまうから、黙っているほか手がなかったのかもしれません。
恐怖政治の典型です。

(資料館とその内部)
松尾芭蕉がこの義仲寺に何故関係しているかというと、彼は「自分が死んだら木曾塚(=義仲の墓)に葬って欲しいと遺言するほど、木曽義仲のファンだったからです。
伊賀上野という山深い場所で生まれ育ち、江戸へ出てから有名になっていった芭蕉は、武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)で生まれ、信濃のさらに山深い木曾で育った義仲や、彼の幼馴染といわれる巴御前が京へ出てきて理解されず、滅亡してゆく姿に、何かしらのシンパシー(共感)を感じたのかもしれません。
境内のいちばん奥にある茅葺の無名庵は、芭蕉が奥の細道から帰った後に過ごし、以降も度々訪れた庵です。
その際に芭蕉を訪ねた弟子、島崎又玄の「木曾殿と背中合わせの寒さかな」という句が、石碑になって残されています。
これは、無名庵の中で東を向いて座ると、ちょうど外にある木曽義仲の墓と背中合わせになることからきているそうです。
そして義仲の墓のそばには、ちゃんと遺言通り芭蕉の墓もあって、有名な辞世の句の石碑もあります。
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
これまで旧東海道の旅で、川崎の八丁畷や静岡の金谷坂、そして三重の杖突坂など、句碑とともに何度か松尾芭蕉が登場しました。
鳴海宿ではお寺に門人の建立した墓もありました。
しかし、義仲寺は芭蕉がもっとも愛した場所ですから、彼のファンの方はぜひ立ち寄ってください。
入口脇の資料室には、例の木曽義仲と今井兼平主従の絵のほか、芭蕉関係の展示もあります。

(石場踏切とその先のY字路)
義仲寺を出て西へ向かいます。
大津警察署の裏を通り、400m先の石場踏切(35.004239, 135.875959)で京阪石山本線を渡ると、すぐ先で道は二股に分かれます。
どちらも旧道然としていて迷いますが、やや登り坂になっている左の道をゆきます。
石場踏切から130m進むと、またもや道は二股に分かれます(35.004123, 135.874503)。
ここも左へ進路をとります。
このように、大津宿は水口宿同様に、宿場内を幾筋の路地が並行しています。
その並行した路地は、琵琶湖に向って斜面に段状に西へ向かっています。
ふたつ目のY字で左の道を選んだあと、左手に平野神社入口、浄土宗西方寺を見ながら先へ進むと、踏切から390m先で、4車線の大きな通り(なぎさ通り)を横断します(35.004758, 135.871809)。
ここには信号機はおろか、横断歩道もついていません。
しかし、交差する4車線道路はいたって車は少ないので、タイミングを見計らえば直進出来ます。

(二つ目のY字路と西方寺)
この道路を横断する時、右手(北方向)をみると、琵琶湖のほとりにお城そっくりの建造物が見えます。
あれは1961年に竣工した琵琶湖文化館(35.008196, 135.873834)で、近世の絵画や仏教美術が展示されていたものの、建物の老朽化によって2008年3月で休館して、今は立ち入ることができません。
今はもっと西寄りの浜大津に新たな博物館を、2027年度開業を目指して策定中だそうです。
渡ってすぐ右手にあるのが浄土宗成覚寺です。
そこからやや下って100m先で常盤橋という小さな石橋で、小さな川を渡ります(35.005224, 135.870355)。
次回はこの橋から大津宿の残りの部分について説明したいと思います。

(旧琵琶湖文化館)