旧東海道にブロンプトンをつれて52.草津宿から53.大津宿へ(その4) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(鳥居川交差点)

草津宿から南下した旧東海道は、神領交差点で右へ折れて西進し、瀬田の唐橋を渡って琵琶湖の西岸へと移り、橋の西詰交差点から270m先の鳥居川交差点(34.974244, 135.901971)で再度右折、今度は逆に北上します。
今回はその鳥居川交差点から大津宿方面へとペダルを踏みます。
交差点向かい左角の、真宗佛光寺派をみながら二段階で右折すると、道の両側には商店が増えてゆきます。
これは、この先のJR石山駅から続く石山商店街で、400m先で国道1号線の陸橋下をくぐり(34.977884, 135.902035)、460m先で京阪石山坂本本線の松原踏切(34.978411, 135.902054)を渡り、620m先で東海道本線(琵琶湖線)をアンダーパス(34.979892, 135.902022)でくぐります。
その手前松原町西交差点を左折して100mもゆけば、右側が石山駅南口です。
駅名は石山寺の入口ということでしょう。

(国道1号線をくぐります)

(京阪電鉄松原踏切)
アンダーパスは車道が深くなっているのに対し、歩道は浅く、それほど上り下りしなくてもくぐってゆける構造ですが、その分幅が狭く駅近くということもあって、歩行者の往来も多いのです。
但し、車道も車が詰まると幅に余裕がなく、自転車には危険です。
自転車は交通区分上は軽車両ですから、「やむを得ない場合」以外は車道を走るべきなのですが、こういう場合、判断に迷います。
小径車は投影面積も道路専有面積も小さくて済むだけでなく、ブロンプトンの6段変速のようにギア幅が広いと、こういう歩行者が多い道では彼らにあわせてギアも速度も軽くゆっくり目に落とし、前行く人が止まったらキュツと停止し、また再び歩きだしたら同じ速度に戻すということをしても、ストレスがありません。
もっと人が多ければ押し歩きすればよく、さらに商店街のある地下道をくぐったり、駅構内を抜けたりする場合は、簡便な機構により畳んで曳き歩けば良いわけで、そういう意味ではフルサイズの自転車に比べて限りなく歩行者に近い自転車だと思います。
これで電動アシスト自転車はもとより、軽快車(ママチャリ)やクロスバイクより早く走れるわけですから、走行シーンに合わせて変化自在の道具なわけで、そう考えれば階段や山道を背負って歩くのもその一類型に含まれます。
こういう使い方は常識にとらわれず、頭を柔軟に働かせ、「何処へどのように行くか」を想像できなければ実践できません。
そういう意味では、ブロンプトンは単なる可愛らしい小径車ではないのです。
フルサイズのスポーツ自転車だけが正統派であり、小径車など邪道で金持ちの道楽などと断じる人間は、自己の偏狭さと想像力の無さを無自覚のまま晒しているに過ぎないのです。

(東海道本線のアンダーパス)

(盛越川付近)
アンダーパスをくぐった先180mで、旧東海道は盛越川という小さな水路を渡ります(34.981663, 135.901553)。
この近辺には粟津の一里塚(日本橋から百二十一番目)があったといいますが、残念ながら石碑等はありません。
そのすぐ先で左に入る路地を道なりに行くと、石山駅北口(南口に比して小さい)をすぎ、500mさきにあるのは今井兼平(1152-1184)の墓です(34.981041, 135.897613)。
今井兼平は平安末期の木曽義仲に仕えた武将で、その正式な名は中原兼平といいます。
兼平は義仲とは乳母子の関係で、長じては兄の兼光とともに、治承・寿永の乱(=源平合戦)において、主君の挙兵から滅亡まで近衆として仕えました。
乳母が同じということは、従弟同然のような人が近衛軍参謀長をしているようなものです。
源平合戦における木曾義仲の立場を簡単に説明すると、平家の専横によって皇位継承を断たれた以仁王による平家打倒の令旨(=命令書)に呼応して挙兵した彼は、越前・越中境で平家軍を破り、擁立した安徳天皇ともども西国へ落ちのびた平家がいなくなった京都に入洛します。
(この間同じく挙兵した源頼朝は富士川の戦いで平家軍を破ったものの、東国の平定と足場固めで上洛できず)
ところが、義仲軍は規律がゆるく、京の市民に乱暴狼藉を働いたうえに、彼が奉ずる北陸宮の次期天皇擁立は後白河法皇によって阻まれ、法皇を武力で幽閉した義仲は、平家打倒の英雄から一転、同じ源氏の源頼朝から追討を受ける身に転落してしまいます。

(工場街の松並木をゆく)

(琵琶湖畔御幸浜)
そして兼平の死に様は、平家物語の「木曾殿最期」の山場として、壮絶に描かれています。
鎌倉方(源頼朝から派遣された、範頼・義経麾下の軍)に粟津(現在の石山駅北口周辺)の戦いで敗れ、もはや脱出・生還・再起の望みが断たれたと判断した兼平は、幼いころから兄弟も同然に育ち、側近として仕えてきた主君義仲から「ともに死のう」と誘われたものの、「主君が敵軍の郎党など身分の低いものに討たれたら、家来の私まで後の世に笑われます」と断り、その先に見える琵琶湖湖畔の松林を指して、「私が敵を防ぎとめる間、殿はあの松林にて自害をしてください」と勧めます。
ところがすぐ乱戦になって主君が討たれたと知ると、「東国の武士たちよ、これが日本一のつわものの自害する手本である」と叫ぶと、太刀の先端を口に含み、馬上から逆さに飛び降りて自ら落命したというのです。

江戸時代に発行された名所図会にはその場面の絵が載っていますが、自主規制がかかったみたいで後ろ向きに頭から落馬しているのでした。
義仲を追討した義経も、5年後には戦の中で自害するわけですが、その時に仁王立ちして矢面に立ち、時間稼ぎした武蔵坊弁慶みたいです。

なお、追討軍のもう一人の武将、源範頼も9年後には頼朝から謀反の疑いをかけられて誅殺されてしまうのです。
なんとも血生臭い時代ですし、こういう家来の死が美化されて、江戸中期の「葉隠」にある、あの有名な文言(武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり)につながり、後の世の「戦陣訓」にまで影響を及ぼしてしまうわけですから、他人事とは思えません。
ソクラテスが巧みな論舌で自己に納得して毒杯を呷ったり、キリストが弱さを見せながらも御旨ならばといって磔刑になったりするのとはわけが違います。

(膳所城勢多口総門跡の左カーブ)

(桝形跡のクランク)
さて、盛越川を渡った先、旧東海道は両側に工場が並ぶ中を北上します。
左側はかつてNECの大津工場でしたがそれが光半導体を生産するルネサスセミコンダクタマニュファクチュアリング滋賀工場となり、今はひたちなかに移転したため空き家になっています。
右側は日本精工大津工場で、家電製品や情報機器、自動車部品としての軸受を製造し、さらに先の左側は日本電気硝子の本社・大津事業場で電子部品用、耐熱用、照明用、放射線遮蔽用など、様々な用途のガラスを生産しています。
うーむ、こうして工場の変遷と生産部品の多様さを眺めていると、あの平家物語の冒頭にある、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。」という文言が聴こえてきそうな気がします。
なお、左側の工場敷地内旧東海道沿いには、現代の旧街道旅の人たちへの花向けなのか、せめてもの盛り上げなのか、桜と松が交互に並木のように植えられています。
桜と松の組み合わせ並木道というのも珍しいですよね。
産業構造の転換がめまぐるしい昨今、「娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす。」でなければいいけれど…。

(宮町踏切)


工場群はアンダーパスから770m先の晴嵐信号(34.985496, 135.898014)で尽きます。
晴嵐とはこの付近の地名ですが、前回ご紹介した「瀬田の夕照(せきしょう)」に続く、近江八景のひとつ、「粟津の晴嵐」からきています。
具体的には、晴れた風の強い日に松並木の枝葉がざわめく様子をいうようです。
この信号手前、粟津中学校付近について、かつては晴嵐松と呼ばれる松原が広がり、ここが前述した木曾義仲が討ち死にした場所といわれています。

このあたり、旧東海道が最も湖岸に近づく(御幸浜なら100mもありません)ので、ちょっと湖岸に出て昔の人が「近つ淡海」とよんだ湖を眺めてみましょう。
現在、琵琶湖の沿岸遊歩道には松並木が植えられ、当時の姿を偲ばせています。

晴嵐信号から先は一転住宅地の中をゆくようになり、道幅も徐々に狭くなってセンターラインもなくなります。
晴嵐信号から200mほどで、旧東海道は道なりに左に折れ、いったん西へ向かいます。
そこがこの先の膳所(ぜぜ)城勢多口総門跡になります(34.987227, 135.897380)。
そのすぐ先のクランクが枡形跡(34.987445, 135.896380)。
つまりここからは膳所城内にいったん入るということになります。
枡形をすぎ、晴嵐信号から410m先で京阪石山坂本線を宮町踏切(34.987421, 135.895211)で渡り、その90m先(34.987309, 135.894205)を右に折れて再び北へ向かいます。
(右折が旧東海道である旨、路面にゼブラゾーンの表示あり)
左側に日蓮宗妙福寺(34.988311, 135.894052)をみとめ、曲がり角から130m先の瓦ヶ浜踏切(34.988529, 135.894092)でまたもや京阪石山坂本本線を渡ります。
このあたりの旧東海道はクランクを繰り返しますが、並行している京阪石山坂本本線の線路も同様に左へ右へと曲り、まるで旧東海道とほつれた糸のように絡んでいます。
踏切の左右両側に、それぞれ上り下りのホームがあり、タッチ式の簡易出入札機だけがある無人駅です。

(妙福寺)

(瓦ヶ浜踏切)
踏切を渡った先すぐ右折して65m先突き当り左側の陽炎園と札の掛かった茅葺門のある家が、膳所焼美術館です(34.988573, 135.894800)。
膳所焼とは、江戸初期に膳所藩主となった菅沼定芳が御用窯として陶器を焼きはじめたもので、彼が転封後に新たに藩主となった石川忠総が親交の深かった小堀遠州の指導を仰いで茶器としての作品に注力したため、遠州七窯のひとつに数えられ、この博物館では膳所焼の器でお茶菓子がいただけます。
瓦ヶ浜駅に戻って北上を続けます。
踏切から100m先左側に真宗佛光寺派専光寺(34.989487, 135.893958)、170m先同じく左側に同派光源寺(34.990126, 135.893907)、230m先やはり左に篠津神社鳥居(34.990629, 135.893896)と寺社が続きます。
さっきから見かける真宗佛光寺派という宗派は関東地方では殆ど聞きません。
調べたら東京と神奈川に一寺ずつです。
これは江戸期に入る以前に本願寺教団に組み込まれた寺が多数あったからだといわれています。
本山はどこかと確認すると、京都市下京区の四条烏丸にほど近い場所にあって、よく通る場所のわりには奥に引っ込んでいるせいか意外に目立たないのでした。
鳥居の向こうに見える篠津神社の表門は、膳所城の大手門を移築したものです。
この神社は代々藩主の崇敬を受け、大正期には県社に昇格しています。

(篠津神社 奥に見えているのが移築された大手門)


その先瓦ヶ浜踏切から300mで旧東海道は突き当り、左に折れます(34.991189, 135.893885)が、さらに170m先の信号のない一時停止の十字路(34.991286, 135.891983)を右へ曲ります。
膳所商店街伊勢屋町という名前が街灯下についているだけで、江戸方面から京方向へ向かう際には四つ角手前右側の家が、道に対して僅か斜めに引いているのだけが目印です。
うっかり直進するとすぐ左手に教会があり、中ノ庄駅脇の踏切を渡ってしまうので、キリスト教会と踏切が出てきたら行きすぎです。
(前は十字路に点滅信号があったのですが、老朽化で撤去されたみたいです)
このように、晴嵐信号から大小合わせて3つものクランクが続くのは、場内で敵の突進をゆるさないため、また膳所藩の初代菅沼氏もその後の石川氏も、徳川家康にとっては三河以来の直参の家柄ですから、東海道沿いには親藩のみ置くという徹底ぶりとともに、京に対するにらみを効かせる場所だったのでしょう。
十字路を右折して直進すると、左側にやはり真宗佛光寺派の大養寺(34.994495, 135.891905)をみとめて410m先で十字路の信号(34.994954, 135.891919)を渡ります。
交差点に名前はついていませんが、住居表示に「本丸町5」とあるように、左右に交差する道を右の琵琶湖方面へ行った突き当りが膳所城正面で、ここに先ほど篠津神社に移築された大手門がありました。
大手門跡の小さな石柱が、交差点手前左側の植え込みの中にあります。

(今はこの交差点に点滅信号はありません)


次回はこの膳所城入口の交差点から大津宿へと向かいます。