『愛するということ 「自分」をそして「われわれ」を』ベルナール・スティグレール著を読む(2/2) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(前回からの続き)

そして現在、この「われわれ」という集団の中で自分が自分になってゆくプロセスは徐々に消滅してきているといいます。
その主要因として、主に著者が文化産業と呼ぶ媒体(テレビや映画を代表とするオーディオ・ビジュアル)が奪う人々の時間を著者はあげています。
市場経済が世界規模まで拡大し情報化した現代は、地球規模で消費社会が隅々まで行き渡る世界です。
こうなるために、或いはこうならないように、これを購買せよ、どこそこに投資せよというCMやそれに挟まれた番組のメッセージに人びとの時間はシンクロ(同調)し、それが毎日繰り返されることによって、過去把持(かこはじ=フッサールの云う「先ほどまで感じて覚えているもの」)が共有されてゆく現象が指摘されています。
そして、こうした意識が人々の間で過剰に同調した結果、ディアクローニー(自己の特異性)を失うというのです。
それはつまり、テレビをはじめとするコンテンツ産業によって、大人にとっては思考の自由が奪われることを意味し、子どもたちにとっては注意力という、将来社会を生き抜いてゆくうえで必須の能力が習得できないことが危惧されています。
そこがまさに、冒頭の女性研究者との接点でした。

そう言われてみると、エンターテイメント産業とは表面では柔和な顔を装いながら、裏では人々の表層的な欲望を極端なまでに煽り、個人的な時間を奪うことでその人から財貨を巻き上げる、現代のレヴィアタン(怪物)のようにも思えてきました。
むかしはコンテンツの合間にCMがあったのに、いまはCMの間にコンテンツがあり、そのコンテンツといえば、ただ視聴者をテレビの前に釘付けにしておくための、中身の薄い、しかし刺激だけは強いプログラムになり下がっているように見えます。
これが旅ということになりますと、どうでしょう。
同じテーマパークに何度も通ううちに、それが旅行のシンボルになってしまい、そこにあった歴史、たとえば塩田で製塩が盛んであったこと、そうした事情から浦は安かれと地名が付いたことなどを人々が忘れてしまい頭の中で飛ばしてしまい、そのテーマパークを訪れる際は、まるでその世界の一員としてお客を演じねばならないほどに、個性が埋没してしまう状況をいうのでしょうか。

埋立地だから土地の記憶がないって、海の記憶はありますからね。

それは幾度テーマパークに通ったところで、取り戻せない記憶でしょう。

それで雇用が確保され、グッズが売れたりレストランが繁盛するっていわれても、うーん、思考の自由を失ってしまうことと天秤にかけると言われたら困ります。

こうして人々は、賢い消費者になるどころか、本源的な意味でのナルシズムが破壊された結果、もはや自己への欲望を抱くことができなくなってゆき、最終的にはあらゆる違反行為が可能になると著者は主張するのです。
おそらくは、人生に絶望して他人を巻き添えにして死ぬ事件の原因になるようなメカニズムを指摘しているのだと思いますが、メディア媒体が個人を有能な消費者として煽り、「われわれ」の集団もまた経済単位として社会に組み込まれた現在、そこから落ちこぼれた個人や組織が社会に対して牙をむくという事件は、日本においても既にあちこちで起きています。
そんな風に反抗する気力もなく、お腹いっぱいの依存症者になって生きる屍と化している人たちも、大勢出ているように思えます。
うまいものを見ると酒が欲しくなり、うまい酒を飲んだ結果メタボかアルコール依存症になってしまった人はたくさんいるでしょうし、長い間断酒した末に、やっぱり俺はと酒に手を出して元の木阿弥になった御仁もいるでしょう。
(語呂合わせで書いているだけで、別に特定の企業を攻撃したいわけではありません)
そうした人たちを対象に金儲けを企んだり、搾取したりする人間まで出ている現状には、呆れてモノも言えませんが。

話を本に戻せば、特異性を奪われて自己の思考を失った個人は、さらに同調圧力に屈しやすくなり、本来あるべき機能を有したはずの「われわれ」が、付和雷同的群衆である「みんな」に収斂してしまった結果、おかしな方向へ社会が転がりだしても、警鐘を鳴らす人は誰も現れないのはもちろんのこと、行き着くところまで止まらないだろうと予測をしています。
結局、メディア漬けとなって無感覚、無感動になった個人は、もはや消費者としても機能しなくなるはずで、これは文化産業が消費社会を煽っておきながら、長期的には消費者を消し去ることで、自らの存在意義すら失わせる方向へ持っていっていると著者はいうのです。


第2章で、著者はこうした危機的傾向に私たちがどう対処してゆくかを提言しています。
人間がより豊かな社会を目指して技術を開発し、社会を改革して消費社会を発展させてきたその先に、「生き残りをかけて経済的に闘う」ことしか選択が無くなっているのだとしたら、まずはその流れに加担しているのではないかと自己を疑い、「奪う」とは逆の「与える」方向に否が応でも持ってゆくしか道は無いように著者は話を展開します。
訳者があとがきで書いているように、具体的にいえば、移民や自分とは考えや信条の違う人たちを排除したり、個人の集団への忠誠として道徳心や愛国心を強制したりして「われわれ」の集団を取り戻そうとするのは本末転倒で、特異性を持っていた個人が、自己の様々な顔に内面で折り合いをつけていたように、全く異質な他者とも、たとえ嫌々であっても言葉を交わし、不調和のうちに微調整を繰り返しつつ、矛盾をはらみながらも辛抱強く共存してゆくしかないのではというところに共感しました。
その際に大事なことは、自分が逆らって闘っているその相手の傾向が、実は自分がその闘いで守ろうとしている傾向にとっての条件なのだということを理解することだといいます。
何だか「反対の一致」を唱えたクザーヌスみたいだなと思いながらも、互いに相手を締め出そうと角をつき合わせるのではなく、たとえ一部であっても、敵と手と手を組み合わせてゆくべきというところには、希望があると感じます。
振り返れば、昔の政治はそうだったといいます。
与党と野党は論戦では激しく言葉を闘わせても、そこを離れた深い場所では、お互いの存在を認め合っていたとききます。
いまのように野次ったり揚げ足取りしたりするだけに終始して、ただひたすら互いをののしり合い、席や金、権力を奪い合うだけ(本当のところは知りませんよ)なら、そんな場所では何も新たな制度や社会を産み出せないでしょう。


私たちが一番避けねばならない態度として、著者は最後に「悪」について定義しています。
とても印象深く考えさせられたので、抜粋しておきます。

『しかし悪とは何よりもまず、悪を告発するだけで思考しなくなることであり、「われわれ」というものの未来を憂えるような「われわれ」を「われわれ」が諦めてしまうこと、批判やあらたなものの創出、すなわち取り組んで闘うことを「われわれ」が放棄してしまうことなのです。』

「悪いものを悪いと言ったところで、それが何の役に立つのか」と言ったのはゲーテでしたか。
いつの時代にも、どこの世界にも、自分の内に不平を抱え、他人の不幸を喜び、それに乗じて人を腐して、或いは悪口を言って喜んでいる加虐趣味の人はいます。
そういう人は、自分は正義のつもりでいても、その生き方が周囲に勇気や希望、幸福を全く創り出さないばかりか、新たな毒を芽吹かせるべく、不幸を播いていることに気付いていません。
自分では何もうみ出さずに、人の取り組んでいることを批評ばかりしている人間とは距離を置き、あなたが今いる場所で出来ることに取り組んでほしい。
それがたとえどんなに僅かな行為で、人の目につかなかったとしても、人から笑われようとも、上述のような諦めた側の人にだけはまわらないで欲しい、そう著者は言いたかったのだろうと思いました。


<読んでみたくなった本>
フリードリッヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」(岩波文庫)
ニコラウス・クザーヌス「神を観ることについて」(〃)※絶版
エトムント・フッサール「内的時間意識の現象学」(ちくま学芸文庫)
ルネ・デカルト「省察」(〃)
アンドレ・ルロワ=グーラン「身ぶりと言葉」(〃)
ジャック・ラカン「エクリ1」(弘文堂)鏡像段階論について調べるため
ベルナール・スティグレール「象徴の貧困 1」(新評論)


<行ってみたくなった場所>
パリ

<こんな人におすすめ>
メディアが人間に与える影響について知りたい
情報社会の中で失われてゆくものとは何か?
人の集団の健全性とはなにか?
消費社会は本当にこのままでよいのか、等々思っている方々。