昨日ようやく「風たちぬ」を観にいきました。
カップルだらけですごくアウェー感がありました。

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さて、この映画をみて感じたのは一言で言うと「怖い」でした。
けっして映画そのものが怖いわけではありません。
映画としてのクオリティーは素晴らしい。

ネットでは賛否両論あるようですが、私は断然、賛同派でした。
映画のテーマは宮崎作品の王道というものです。
ポスターにあるように「生きねば」です。

清濁飲み込んで「生きる」というテーマは
1995年の漫画版「ナウシカ」でストレートに表現されています。

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また、1997年に公開された「もののけ姫」のテーマも「生きる」でした。
ですから、宮崎作品に共通するテーマだと言えます。

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ところが、私は「ナウシカ」や「もののけ姫」とは違う怖さを感じました。
何が違うのか?

まず、「生きる」の活用です。
「ナウシカ」では、「生きよう」と活用されています。
「もののけ姫」では「生きろ」でした。
ところが、「風立ちぬ」では「生きねば」となっています。

「生きよう」という活用では、未来に向かって語りかけています。
「生きろ」も諦めるなというニュアンスが内包されています。

一方、「生きねば」という活用には
「生きられない」状況の中で、
なんとか「生きていく」というニュアンスが含まれます。

外的な環境の悪化という前提がそこにはあります。
映画の中で、カストルプというドイツ人が出てきます。
おそらくこの人物のモデルは1941年に逮捕された、
ドイツ人でソ連のスパイだったリヒャルト・ゾルゲだと思われます。

このカストルプが軽井沢で二郎に
「中国と戦争していること忘れる」
「満州国を造ったこと忘れる」
「国際連盟を脱退したこと忘れる」
「そして破裂する」
と語ります。

また、こんなシーンもありました。
特高警察が二郎をマークしていて、
二郎の会社にやってきます。

二郎は身に覚えがないと上司の黒川に語ります。
そのとき黒川は
「みんな身に覚えがないといって連行されたが、
誰も帰ってこなかった」
といって二郎を匿います。

大戦前の時代背景だから、
映画でそのように表現されただけとも言えるでしょう。

でも、宮崎の作品は常に現代を生きる私たちに向けられています。
「生きねば」というメッセージは現在の私たちに向けられているのです。

であるならば、宮崎は現在を「外的な環境の悪化」ととらえ、
「破裂」に向かっていると捉えているのでしょう。

この現在進行形で進む「外的な環境の悪化」という前提が、
私に恐怖を呼び起こすのだとおもいます。

正直、日本における現在のナショナリズムには、
1930年代の匂いがつきまとっています。
当時の人々の多くは戦争を望んではいなかったはずです。

1930年2月に行われた第二回普通選挙では、
軍縮を主張した民政党が議席数を273に伸ばし、
軍拡を主張する政友会の174議席を大きく上回りました。

ところが、民意とは異なる場所で戦争が突き進み、
誰もが総動員体制に順応するよう求められるようになりました。

今の状況が当時と全く同じだとは思いません。

でも、自民党の憲法案を読んでも、
自民党政治家の歴史認識をみても、
民意とは異なる場所で生じた1930年代のナショナリズムを
美化しているようにしか思えません。

中国のナショナリズム。
韓国のナショナリズム。
日本のナショナリズム。

東アジアのナショナリズムが行き着く先に何があるのか。
自分の日常生活の外側にある環境の悪化に鈍感となり、
カストルプの言葉のように「忘れる」先には、
「破裂」が待っているようにしか思えません。

そのような状況の中で、「生きねば」ならなくなる。
そいうことをリアルに想像してしまうことが私の恐怖を生むのでしょう。