Jude the Obscure | Have a cup of tea

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I finally finished reading Thomas Hardy's novel, 'Jude the Obscure'. Actually I have seen this British film, which was directed by Michael Winterbottom, starring Christopher Eccleston and Kate Winslet, very long time ago but such tragic story discouraged me from reading the original novel at that time. However, I had an opportunity to read it recently and I found it very interesting.

昨年から読んでいたトーマス・ハーディの小説『日陰者ジュード』(中公文庫、川本静子訳)を読み終えた。

この作品、10数年以上前に、マイケル・ウィンターボトム監督のイギリス映画『日陰のふたり 』を観たとき、その暗さと悲惨な結末のストーリーに、英文学に興味がありつつも、その原作を読むことはないだろうと思っていた。しかし、今回、最初の部分を原書で精読する機会があり、その後、訳書で読んでみた。当然ではあるが、小説を読んでみると、映画の悲惨な印象だけではなく、いろいろと思う事があった。

元旦に読んでいたら、いきなり一番衝撃的な場面(ジュードとアラベラの子「ちびの時じいさん」が、ジュードとスーの二人の幼子を殺し、自死する)に遭遇してしまった。しかし、その衝撃的な事件の前の日の、スーと「ちびの時じいさん」のやり取りを読んでいて、明らかに子供である「ちび時じいさん」の言い分が論理的で正しく思え、スーとジュードの行動は計画性なく自分たちの欲望だけで突き進んでいるように思えて、二人に苛立ちを覚えたのだった。子供とスーのやり取りの状況は、「子供がいるという理由で部屋をなかなか貸してもらえない → 子供は自分たちがいるから貸してもらえないと思う → スーは妊娠していてなおも子供が増える予定 → 時じいさんは、どうして貧しくて部屋も貸してもらえないことがわかっているのに、そう次々と子を産むのか、とスーを責める」というものだった。ちなみに、この「ちびの時じいさん」と呼ばれる子は年齢にして8~10歳くらいか。ジュードとアラベラの間にできた子だと言われるが、アラベラがジュードと別れ、両親とともにオーストラリアに渡った後に産んだのだから本当にジュードの子かは定かでないが、アラベラは両親にその子を預けていて自分では育てていない様子。そして、ジュードがスーと生活を始めた頃に、その子はひょっこり二人の前に現れたのだ。

最初は読むのが気が進まないと思いつつも、どのような展開になるのかと、だんだん引き込まれていった小説だった。ジュードが大学進学を目指すために訪れ、石工職人をしながら独学で勉強して生活していたクライストミンスターという地は、オックスフォードをモデルに描かれていることも興味深かった。

大学の街、オックスフォードには数年前に、映画『ハリー・ポッター』のロケ地とウィリアム・モリスのステンドグラス目当てで訪れたことがあるが(旅行記はコチラ )、この小説を読んでいて、ジュードがいくら独学で大学を目指しても受け入れられてもらえなかった疎外感というか、その町の独特な雰囲気がわかるような気がした。石造りの荘厳な建物が並び、選ばれた人にしか門戸が開かれない、高尚な学問の地であるオックスフォード。とはいえ、時代は変わり、ジュードが今生きていたなら、夢を実現できていたかもしれない。今では英語の語学学校だってたくさんある街なのだ。
ジュードも学問の目標があったにもかかわらず、若さゆえ欲望に勝てずアラベラと結婚してしまうが、確かに若い時って何かとそういった誘惑に負けてしまい、目標があっても集中できないというのは分かるような気がする。

アラベラが異性に対して自分を魅力的に見せようとするときに行う「作りえくぼ」が気になった。彼女はそれを練習して、ここぞというときにお目当ての男性の前でえくぼを作る。アラベラが登場する場面によくそのくだりが出てきた。このアラベラも最後までひどい女として描かれているが、ジュードが病気で弱っていよいよ死にそうなときに、自分を養ってくれる別の相手を探すため、街のお祭りに出かけていき、この作りえくぼで男を誘おうとする。アラベラもかなり肉欲的な女性として描かれているが、最後の方でジュードを半ば騙して、寄りを戻させていたが、彼が病気になると、自分が生きていくために次の相手を探し出すのだから、見方を変えれば生きることに執着している、強い生命力のある女性だと思う。

ジュードは石工職人として働いていたが、肺の病にかかったのもその職業のせいだろうか。両親が他界し、パン屋を営むドルシラ叔母さんにひきとられたジュード。貧しかったが勉強が好きで、牧師になりたくて大学を目指そうとするジュードは、身体の線が細い印象だ。肉体労働向きではなかったのだろう。30歳くらいで亡くなってしまうのだ。文学青年が胸の病で亡くなるエピソードは、詩人のジョン・キーツを思い出させる。

このジュードのドルシラ叔母さんがよく言っていた、フォーレイ家(ジュードとスーの一族)の人間は結婚に向かない運命にあるという言葉。ジュードの両親も不幸な結婚になり、また先祖にもそういった事実があるのだと仄めかされている。「結婚に向かない」なんて、なにか自分に言われているような気がしてちょっと居心地が悪かった。だいたい結婚に向く、向かないってあるのか?と思う。おそらく、向いていなくても、うまく適応してやりくりできればいいのではないか。アラベラだって結婚に向いているとは思えないが、本能で生きていくために、あるいは養ってもらうために相手が亡くなると次々と結婚する。そんな人もいるだろう。

ジュードを子供の頃から知っているエドリン寡婦。アラベラとともに最後まで登場するが、彼女がジュードとスーについては最もなことを言っていたと思う。宗教とか法律よりも、エドリン寡婦の長い人生を歩んできた経験からの洞察に説得力があった。

「正しい事をする」・・・当時は離婚が認められていなかったから、ジュードがアラベラと、スーがフィロットソンと法的に結婚していたことはどうにも解消できず、だから、その後、ジュードとスーは事実婚状態だった。でも二人は愛し合っていた。その証に二人の間には3人目の子ができようとしていた。そのときの二人は自然で本能に従っていたのだろう。そして、その後、子を失う悲劇が起きて、スーがそれを自分が犯した罪(ジュードとの事実婚)への罰だと考え、ジュードと別れてフィロットソンと寄りをを戻すことが「正しい事」だと信じる。このときの「正しい事」とは、当時は世間で認められていたことや教会の教義に従う事なのだろう。最後のほうで、ジュードがスーに、自分がアラベラと寄りをを戻したことが「正しい事」だというなら、それは自分の人生で最も不道徳で不自然なことだと言うのが印象に残る。正しい事=不自然なこと。あまりにも世間体や宗教の教えに縛られている時代が鋭く描写されている。

スーという女性の描写を読んでいて、一部、自分に似ていると思ってしまうところがあった。スーに共感するかどうかは別として、あるくだりのスーの言葉で、若い頃の自分の愚かな振る舞いを思い出してしまった。忘れていたのに・・・。そして、注意しなければと思ったのだ。この小説は教訓的な読み物かもしれない。

スーは独身時代は仕事を持ち自活していた女性で、古い慣習を嫌い、ギリシャ神話など異教の書を読んだりして、当時としては先進的な女性として描かれているが、子を失った事件をきっかけに、あれほど嫌っていた宗教に立ち戻り、いわば不自然に生きることを選ぶ。
この展開を読んで、ちょっと前に、俳優のベン・ウィショーが出ているので観たイギリス映画『情愛と友情 』を思い出した。これはイーヴリン・ウォーの小説『ブライズヘッドふたたび』(原題:Brideshead Revisited) が原作の映画だが、厳格なカトリックの貴族とその友人を描いた物語で、ここでも一時オックスフォードが舞台ででてくる。そして、貴族の娘とその恋人とのエピソードで、スーの行動に似ていると思うものがあった。偶然にも、スーの名字もBrideheadだ。

仕事でキリスト教がベースにある国の会社の行動規範に触れることがよくあるが、それにはよく「正しい行いをする」というフレーズが出てくる。その場合の「正しい行い」とは、仕事上で相手を敬ったり、不正をしないことなどだが、なんだか、そのフレーズはそういった信仰から流れてきたものなのか・・・。