ホラー1「隙間」-1
ぼくが“それ”に気付いたのは、ちょうど一週間前だった。
一週間前、ぼくは残業を終えてオフィスで帰り支度を始めようとしていた。
時刻は午後9時半を過ぎた頃だった。オフィスにはもう誰もおらず、ぼく一人だった。
別に慌てていたわけではないのだが、仕事で使っていた電卓をデスクの引き出しにしまおうとした時、手を引き出しに引っ掛けて持っていた電卓を床に落としてしまった。
ぼくは「あ…」と小さく叫んでしゃがみ込んだ。
床に落ちた電卓は少し跳ねてデスクの奥に転がっていた。
ちょうど腕を伸ばせば届く距離だった。腕を伸ばしやすいように顔を後ろにのけぞらせて電卓をつかもうとしたその時だった。
ぼくは“それ”を見てしまった。
顔を後ろにのけぞらせたとき、当然ぼくの後ろの人たちのデスクが視界に入ってたのだが、そのデスクとデスクの細い隙間の向こうになにかが見えた。いや、なにかがあった。
ぼくは“それ”を何気なく見たのだが、見ながら一瞬にして思考が固まり、同時に動きも固まってしまった。
最初は“それ”がなにかわからなかった。でも、そこには確かになにかがあった。
固まった思考は、やがて混乱し始めた。“それ”がなにかに見えてきたように感じたからだ。
デスクとデスクの隙間はわずか1cmぐらいか。隙間の中は光が当たらないので当然暗いのだが、さらにその向こう…隙間が終わった空間は光が当たっていて明るい。その明るい所に“それ”があり、隙間に張り付いてるように見えた。
ぼくは不自然な体勢のままじっと“それ”を凝視した。
白っぽいものが隙間の向こうに見える。その白っぽいものの一部なのか、それとも別ものなのかは分からない。白っぽいものの上に重なって黒っぽくて小さいものが見える。
ぼくの視線はその黒っぽいものに集中した。
“それ”は…目だった。
白っぽいものは顔か?その顔に付いてる目が、隙間の向こうからこちらをじっと見ていた。まばたきはしてなかったように記憶している。ただ、じっと目を見開いていたと思う。
ぼくはその目を見つめながら、恐怖と気持ち悪さで目をそらす事もできなかった。
今思い返すと、その目は微妙に動いていたようにも感じる。ぼくの顔や体を見るために視線を動かしていたように感じた。
ぼくはどうしようか考えた。
“それ”が一体なんなのか確かめたい。人なのか?人があのデスクの向こうに潜んでいて、デスクの隙間からぼくを見てるのか?
しかしこのオフィスでぼくは、夕方からもう何時間も一人で仕事をしていたはずだ。
途中何度かは人の出入りはあったが、ぼく以外の人間がこの部屋に残ってはいない認識だった。だがその認識が間違っていたのだろうか?
そうやって、“それ”がここにこっそり残っていた人なのかもという淡い気持ちが作用したのか、ぼくは恐怖よりも興味の方が強くなった。
そっちがぼくを驚かそうとしているのなら、残念ながらぼくは怖がってないという意思を示してやろうじゃないかとさえ思った。
そう思ったぼくは身をかがめたままゆっくり体勢を立て直し、今度は全身をそのデスクの隙間の方へ向けた。そしてその瞬間、え?と思った。
つい今まで見えていた“それ”が見えなくなったからだ。
ぼくは(逃げたな)と思った。
素早く立ち上がると、走ってそのデスク列の向こう側が見える場所まで移動し、覗き込んだ。
誰もいなかった。
もし“それ”が人でなかったのなら、そう見えるようなものも無かった。
誰かが動くような気配も音もまったくしなかった。
そう広くはない周りを見ても、動くもの一つも見当たらない。
やはりこのオフィスには自分しかいない。
ぼくは念のために、何列か並んでいるデスクの一つ一つをチェックした。デスクとデスクの隙間に“それ”に見えるようなものがないか、確かめてみた。そうしないと気が済まなかった。しかし、そんなものはなに一つ見当たらなかった。
ぼくはまた自分のデスクに戻った。椅子には座らず立ったまま考え込んだ。そして落とした電卓をまだ拾ってなかった事に気づいた。
さっきと同じようにしゃがんで顔を後ろにのけぞらせ、腕を伸ばす。
いた…。いや、見えた。
後ろのデスクとデスクの間の隙間から“それ”が見えた。
ぼくは“それ”を見た瞬間、得体の知れない恐怖感に包まれ、思わず叫びそうになった。
後ろの“それ”から目をそらし前を向いたぼくは、落とした電卓を拾い上げるのをあきらめ、しゃがんだまんま震えていた。
つづく