僕は、作家になりたい。
時折、そうやって叶うのかもわからない夢を人に語ったり、なんとなく想像してみたりしている。
でも、正直「いっそのことこのまま消えてしまえれば」なんて思うことも当然少ないわけじゃない。いや、むしろ多いとさえ言えるのかもしれない。
大学だって行かずにはいられないけど、このまま高校と同じような、つまらないテンプレの授業をするようなところなら行きたくない。
その理由はいくつかある。一つは上に書いたとおり。つまらない、聴いても聞かなくても大して変わりのない子守唄のような授業をしている場所に行くくらいだったら、学費もかからず食事の負担もなくなるように願って死んだほうがましだ。
二つ目は純粋に自分の未来に希望が持てないからいきたくない。わざわざ親に学費を払ってもらってまで、俺は可能性のない未来に生き続けられるほど神経は太く出来上がってはいない。
かと言って、作家以外の仕事はしたくないし、できないと思う。毎晩父親は帰宅すると会社の愚痴を言っている。それを聞いていると「生殺しのまま動くだけ動かす。なんて社会は残忍で容赦のない存在なんだろう」と思ってしまう。結果幼少期からそんな親の話を聞いている俺は職業に関しては一つも期待を持つことはできていない。今後もそれだけは不可能だろう。
でも、NEETになって穀潰しを、なんていうのは恥さらし以外の何者でもない。そんなことするくらいだったら野人になってやろうと思う。
つまり、俺の今後には、俺の価値観が変わりでもしない限り、光明は決して見えない。
ただ、夜になって布団に入り、朝になって目を覚ますと「今日こそは何かあるんじゃないか」という非常に刹那的な期待をもって体を起こし、必死の思いで惰性で続いている日常生活に顔を向ける。
そして、なかば習性的になっているような行動だけど、平日は「今日も学校か」と思いながらコンクリートの箱の中ですし詰めになって過ごし、「明日も学校か」と思って帰路につく。
休日は受験生らしく勉強。少ないながらも空いた自由時間は大抵何をしようかと考えているあいだに終わる。
「やってらんねーよ」なんて言葉も、発音こそしないものの、そんな言葉を吐き出したくなるときもある。
だが、それを言うと何だか自分の人生には可能性がないことを認めながらも死んだ魚のような目をして生きていくことを決定されたような気がするから、基本的には考えないようにしているのだけれど。
本当に生まれ変わりのようなことがあったとしても、やはり記憶として残るのは一回の人生しかないのだ。負けたくはないし、ましてや自分から可能性を投げ出すのはもってのほかだと思う。たとえそれが「もしかしたら」ほどの可能性であっても、最後の記憶がみじめなのは個人的にいただけない。
でも、こういうふうに考えているのは何も自分だけではないはずだと信じたい。
決して強くなく、決して自分の見ている夢から離れることができず、明日の刹那的な希望にすがって生きて行くことしかできない。そんな弱い人間は俺だけじゃないと信じたい。
いや、実際はそんな人間は存在してなくてもいいんだ。
ただ、そう信じていることによって歩みを止めない一つの理由になればいいなって、そんなことの言い訳に使えればと思っているだけだから。
そうだよな、「消えてしまえれば」なんて常套句、使えてる間はまだマジなのかもしれない。言えるだけ、まだやっていけるのかもしれない。本当に辛くなったらそんな事さえ言ってる余裕はなくなっちゃうだろうしな。
なら、そんなことを言えてるあいだに神様からの運命のいたずらが来るように待ってますかね。
一言
文章に引力がないよなぁ