パリを初めて訪れた時、エッフェル塔や凱旋門、あちこちにある庭園の美しさはもちろんだけれど、ただの街並みや建物の作り出すシックなたたずまいにため息がこぼれました。
そんな中、街歩きをしていて気がついたのは、窓辺を飾る朱色のゼラニウムの花でした。
それほど大きくない窓の外に、かなりの割合でこの朱色のゼラニウムの鉢が置かれていて、それがまるでシックな装いにアクセントを与えるブローチみたい!
その時、「いつかパリに住むことがあったら、自分のアパートの窓辺に真っ赤なゼラニウムを飾ろう!」と密かに思ったのでした。
あれから随分の月日が経ち、予期せぬ運命の流れでパリに住むことになりました。
人生で一度は住んでみたい街の一つだったパリ。
あの時は、叶わぬ夢だと思っていたけれど...。
これまでもいろいろな国に住んだことはあったけれど、アラフィフでパリに住むことになるとは!
そして自分が離婚することになるとは!
私の人生、我ながらなかなかおもしろい展開になっている気がします(笑)。
私のアパートには、小さなバルコニーがついています。
パリの多くの建物は古いので、もともとバルコニーが付いているものは少ないので、ありがたいなと思います。
ここに住みはじめて、早速私は念願のゼラニウムを植えました。
ゼラニウムも、薄いピンクや白、真紅などいろいろあるけれど、やはり私は朱色!
家具を揃えたりして、暮らしを整えていく中で、バルコニーの手すりにゼラニウムを飾ったときに、まるで足りなかったものがパチっとハマったようなシアワセな満足感を覚えたのです。
3年ほど経って、室内で冬越しさせたり、毎年植え替えたりはしていたけれど、のびた枝を剪定したりしたことがなく(...なんだかせっかく伸びているのに切るのが可哀想で...)、気がつけば葉の茂りも弱々しくなってしまってました。
そこで春が来て、ベランダに植木を出す前に、思い切って土の植え替えと同時に、枝を切ったりすることにしたのです。
正直、剪定したことが原因で枯れてしまったらどうしようかと心配になったりもしたけれど、それは全くの杞憂に終わり、ベランダのゼラニウムは、驚くべき生命力でぐんぐんと葉を茂らせ、あちこちから可愛らしい翡翠の粒のような蕾が現れ始めたのです。
あんなに荒療治をしたのに、植物は新しい環境にあっという間に慣れ、春特有の気まぐれな寒さにもめげずに花を咲かせはじめました。
なんて健気なんだろう!
ベランダで咲き誇っている朱色の花たちを見るたびに、生命力のたくましさに感動してしまいます。
荒療治だと思ってずっとやらずにいた剪定が、実は植物にとっては必要な事であり、無駄なことにエネルギーを取られないための必要な措置だったことにも、改めて気づかされました。
大好きなアルフォンス・ミュシャの絵にも、ゼラニウムが...!
きっと人間にも同じ事が言えるのでしょう。
生きているうちに、無駄に伸ばしてしまった枝のようなものがエネルギーを無駄に使ってしまい、自分の持っている本当の力を出せずに、ただ息も絶え絶えに日々を過ごすというようなことになってしまうのではないでしょうか。
私の場合、それを痛烈に感じたのが人間関係でした。
図らずも元夫(になりつつある人)の方から別れを切り出してきたけれど、私の魂はずっと前からこの関係が「不要な枝」のようなものになっていたことに気がついていたはず...。
でもゼラニウムの枝を選定できなかったと同じような理由で、自分からそれを断ち切るという勇気がなかったんだと思います。
剪定した結果、植物が枯れてしまうのではないかと不安になったのと同じように、もし別れたら自分がこれからちゃんと生きられないのではないか…という不安に囚われていたのだと、今なら思えます。
まだ全ての手続きは終わっていないし、未解決なことや不安材料もたくさんあるけれど、「不要な枝」を断ち切ったことで、確かに私の中に再生のためのエネルギーがみなぎっているように感じるのです。
何かを切り捨てた後、自分の中に新しいエネルギーが満ち溢れるまでの癒しの時間をきちんととり、その間自分を労ってあげなくてはいけない。
私がゼラニウムにしてあげたのは、枝を切った後に温度や水やりに気をつけて傷を癒す手助けをしてあげたこと。
そしてその生命力と自然の力を信じてあげたこと。
そう考えると、今私は剪定を終えたばかりで、これからエネルギーを蓄えて時がきたら素晴らしい花を咲かせる準備をしているところなんだろう...、と自分を見守ってあげたいような優しい気持ちに包まれるのです。
ゼラニウムに教わったこと、それは自分の持っている力と再生を信じること。
そして時が来れば、今まで自分で経験したことや決めてきたことの全てのが、いいことに変わって花開くということ。
冬の足音が近づいているというのに、今年のベランダのゼラニウムの花は、驚くくらいに美しく咲き誇っています。