本来、このテーマを書きたくてブログを始めたんだろう。

そんな気がする。

自閉探索は、今まで2回エントリーのタイトルとして登場している。

自閉探索から自己表現へ
自閉探索/Asian kung-fu generation



このテーマは、脳内書明(かくめい)と対になってる。

脳内書明(かくめい)が陽なら、自閉探索は陰。

脳内書明(かくめい)が現在なら、自閉探索は過去。

脳内書明(かくめい)が自分らしさを確認する行為なら、自閉探索は自分らしさを失ったメカニズムを検証する行為。



自分の過去を振り返って、感傷に浸るとか、同情を買うとか、自慢するとか、そんなのじゃない(つもり)。

過去があって、現在がある。

当時は分からなかったこと、感じられなかったこと、消化しきれていないこと、さまざまあるはずだ。

いろんなことを思い出してみる、あるいは、人格が分裂する現象をよく考えてみる。



そうやって、過去の壁を「壊して」、はっきりと「思い出す」ことで、過去を「リライト」する。

過去の自己定義が変わると、現在が変わる。

もちろん、良い方へ変わる。

本来の自分を取り戻す。
1/4の朝日新聞の一面に「できる子伸ばせ」という記事が載った。

この記事については、ネットで見る限り否定的な意見が多かった。

できる子伸ばせ-グーグル

一例



中でも最も面白いと思ったのは、この記事

一部転載します。

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

ということで、今年最初のお話しですが、新年早々、正直、胸がムカムカしています(苦笑)。というのも……

「おいおい、何だ? いまさら」というような新聞記事が一面を飾ったからです。今日の某新聞の一面、見出しはこうなっています。

「できる子伸ばせ」

んーーーーーーーーーーーん? この新聞社って、宗旨替えしたのかしらん?と思わせる見出しです。

それはいいにしても、記事がまたまた??です。

(以下抜粋)-------------------------------------------
……戦後、日本の教育は全体の底上げに重きが置かれ、「できる子」は、逆に放って置かれがちだった。それがゆとり教育や学力低下が問題となったのを機に、才能を伸ばす試みへのタブー視は薄まりつつある。
-------------------------------------------(ここまで)

確かに、できる子どもは公教育では放置されてましたよ。おっしゃるとおりです。

それどころか、「吹きこぼれ」なんて言葉もありましたね。だから、私たちのような進学教室で子どもたちはイキイキ勉強してるんです(*^^)v

でも、学力低下が問題となったのを機に盛り上がったのは、どうすれば「(公教育を立て直して)全体の学力をもう一度底上げできるか?」ということです。だから、みんなが使う教科書の厚みが増えたんでしょう? 違いますか??

また、「才能を伸ばす試みへのタブー視」なんていうのはナンセンスですねぇ~。

中学受験や難関高校受験にトライする子どもがこれだけいるのに、みんながみんな「才能を伸ばす試みへのタブー視」しているみたいな書き方は変ですよねぇ。

で、いったい誰が「才能を伸ばす試みへのタブー視」してたんですかね?

少なくとも某新聞社の読者ではなく、某役所や某教育委員会の一部でしょ?? これも違いますかねぇ~??

結局、何をいいたい記事なのかよくわからないのですが(それ以外の事実は楽しく読ませていただきました・爆)、とりあえず「みんながんばろう」的なものなんでしょうかねぇ??

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「吹きこぼれ」という言葉は初めて知りました、なるほどですね。

どうすれば「(公教育を立て直して)全体の学力をもう一度底上げできるか?」ということ、これが焦点です。

でも一足飛びに公教育がその状況になるとは思えないのは、塾があるから伸ばしたい子はそちらで的な発想が現実だから。

このこと自体が歪んでいないだろうか。



塾があるから、学校の勉強は適当になる。

塾があるから、学校で過ごす時間は無駄。

学校の授業は簡単すぎるから、学校は楽しくないところ。

これって歪んでいないのか??



念のために書くと、塾は楽しかった。

塾はいいところだと思うし、先生が真剣だったから、子供も真剣だった。

けど同時に、あの環境は歪んでいるとも思う。

その原因は、公教育のあり方、社会のあり方にあると思う。



公教育で、自分のレベルに合った勉強をできた方が良くないか?

公教育で、自分が学びたい内容を勉強できた方が良くないか?

その上でさらに、公教育では実現できない勉強を教えてくれるところが塾、というならいいと思う。

時間割とか指導要領に関係なく、体験学習的な取り組みをやってくれるところが塾、というならいいと思う。



今の公教育は単に、上と下を切り捨てているだけだ。

家庭環境や収入に関係なく、自分のレベルに合った、自分が学びたい内容を勉強できる公教育/社会になればいいのに。

「才能を伸ばす試みへのタブー視」はないと思うけど、「才能を伸ばす試み」はこっそり、ひっそりだよね。

「才能を伸ばす試み」は親の見栄の道具だったりするから。



ついでにいうと、「才能を伸ばす試み」は、時として「才能を伸ばさない試み」にもなり得る。

才能って何だろう。

結論は、才能って自分らしさだと思う。

勉強だけが、詰め込みだけが、自分らしさとは限らない。
そろそろまとめに入ります。

「生きる力」ってのは、基本親が教えるものだと思うんです。

親が生きてる姿を子供はずっと見てるわけだし、「親の背を見て育つ」ってやつです。

どこでどうなったのか、それを学校で教育するんだってことになってる。



学校の役割の第一義は、基礎学力と人間関係を学ぶことで、「生きる力」はメインじゃないと思う。

第一義をおろそかにして、「生きる力」が主役になろうとしたのが間違いの発端じゃないだろうか。

「生きる力」をもった子供にしようと、妻と意見が一致してるが、お互いそれを学校に求めてない。

僕たちが生きてきた経験で、「生きる力」として必要であろうことを、子供達にはしっかりと教えようという意志だと思っている。



ゆとり教育をめぐる日本教育の迷走って、発端は「詰め込み教育」にあったと思う。

それが加熱したことで「極めた」し、ゆとりが行きすぎたことでも「極めた」。

陰陽転化で、陰極まれば陽極まり、陽極まれば陰極まる。

過ぎたるは及ばざるがごとし、である。



「詰め込み」でもダメ、「ゆとり」でもダメと分かったのは大きい。

これが中庸の始まりだから。

陰陽の中間、どちらにも偏ってないところに中庸がある。

日本教育の中庸は、これからの日本の発展、日本人の幸せ、世界の平和にとって、非常に重要であると認識する必要があって、これはマジですごく大事なことだ!



何となく感じるのは、学校任せ、塾任せ、他人任せな親。

重要なことだ!という認識が不足している教師。

なにより両親の生き方、教育方針、一言一句が子供の一生を左右するんだけど、そういう認識が不足している親。

教育ってすご~く、ものすご~く大事だよ。