休みの日が終わる 最後の夜は
明日が来なければいいなと思う

君のくれた時計は 僕のものなのに 
時間を止めてあげることができない

僕の大好きな君が 決めたことだから
多分さよならを 好きに なれるかもしれない

休みの日が過ぎて 明日の朝が来れば 
この部屋の空気が薄くなる

君にあげた服を 君は脱ぎ捨てたけど 
心まで脱ぎ捨てられないだろう

僕の大好きな君が 決めたことだから多分
さよならを 好きに なれるかもしれない

外はとっても 天気がいいよ 
だけど僕だけ雨のままで

僕の大好きな君が 決めたことだから
多分さよならを 好きに なれるかもしれない
僕の大好きな君が 決めたことだから
多分さよならを 好きに なれるかもしれない





スミチル version

小学4年生が通説をひっくり返す!?

昨日のエントリーの補足的ニュースかなと思い、取り上げました。

年下の世代は、すごい人がどんどん出てきてる。

正直、自分より上の世代、特に男性には尊敬できる人間は少ない。

端的に言うなら、中年男性はロクなのいない。

しかしどうだろう、自分より下の世代、すごいのがゴロゴロしてる。

日本の未来は明るいよ。



・吉岡くんが、この通説を知っていたということがすごいね。

・「百聞は一見にしかず」と言う言葉を、学者に教えてあげてほしい。

・通説に流されないのが偉い。ちゃんと自分で考えてるんだねぇ。



本当にすごい!
1を聞いて10を知るって、長所的性質のものだと思っていた。

最近、必ずしもそうとは言えないなと感じる。

1を聞いて10を知るって、こういうことだと思う。

AだからBという結論があったら、

じゃあBだったらCだし、

CだったらDだし、、、、、

って繋がっていき、「AだからB」という情報から、より多くの「結論」を得ること。



こんな数珠繋ぎが成立した結果、1つのことから多くのことが学べる。

問題があるなと思い始めたのは、この数珠繋ぎの部分だ。

これってどこに根拠があるのだろうか。

AだからBという結論があったら、

じゃあBだったらCとなるけど、そうじゃないかもしれない。

「AだからBという結論があったら当然BだったらC」ってところに、落とし穴がある気がしている。

その当然っていうアルゴリズムの出所が、全部自分の中からなのか。

それとも、いわゆる常識から、他の言葉でいうなら暗黙の了解からなのか。



純粋な「1を聞いて10を知る」は、数珠繋ぎの出所が全部自分。

多くの1を聞いて10を知るは、数珠繋ぎの出所に常識が混入されている。

そんな風に思うわけです。

これのどこが問題化というと、そうやって気づかないうちに常識にどんどん汚染されてるってこと。

疑いようがなく当たり前と思っていること。

疑いようがないから、当然疑わない。

だから間違ったまま生きている。



面倒な作業だけど、この歳になって、この「当たり前」を総点検している。

世の中に「当たり前」はないと疑っている。

1を聞いて、知ることができるのは1なんだ。

条件や環境が違えば、あるいは人間が違えば、同じ結論が出るとは限らない。

科学なんていうものも、限られた条件の中で得られたデータだ。

なんでも当てはまるわけじゃない。

いい意味で疑う人生を送るよう、心がけています。